紀元前44年3月15日、共和制ローマの終身独裁官に先月なったばかりのガイウス・ユリウス・カエサル(ジュリアス・シーザー)は、彼がローマの共和制を危うくしていると考える元老院議員たちに刺殺された。そのとき、犯人グループに、カエサルが可愛がっていたマルクス・プルトゥスを見つけ、「プルトゥス、お前もか」と叫んだと伝えられている。
本書『分子は旅をする――空気の物語』(監修・岩村秀東京大学名誉教授、エヌ・ティー・エス刊)によれば、それから2050年以上たった今、私たちが呼吸をするたびに、カエサルが最後に吐いた一息に含まれていた「カエサル由来の空気分子」を、少なくとも1個は吸い込んでいる可能性が高いのだという。
「ほんまかいな」と、思わず関西弁が飛び出そうな指摘だが、これは、アメリカ化学会が一般大学生向けに編集した教科書「Chemistry in Context」の中に書かれている確度の高い試算だという。
カエサルが最後に吐いた息の空気に含まれる分子の数は、窒素、酸素など合わせて約2×10の22乗個。それが、地球大気中の空気の分子、10の44乗個の中で満遍なく混ざり、薄められたものを、現在の私たちが吸っているからだといわれれば、「そうなのかな」と飲み込むほかはない。
この本は、酸素や窒素といったカエサル由来の空気分子が、2000年間にどんな目に遭ったかを、それぞれの分子を主役に描いていく。
化学反応性の高い酸素は原始の地球では存在していなかったのに、25億年前くらいから藍藻などの植物による炭酸同化作用によって作られたことや、人間の体内での働きなどがカエサル由来分子である酸素の目線で物語られる。
水分子では蒸気機関の歴史や、電池の発明の経緯......、窒素分子では、ドイツのハーバーとボッシュによる空中窒素の固定という肥料工業の出現などが語られる。
前編はこうした空気分子たちの旅と冒険の物語だ。高校、大学で化学を学んだ人には、「なるほど、そうか」と、断片的知識がひとまとまりの深い理解につながるに違いない。ただ、「中学、高校生など若者に化学の面白さを知ってもらい、理系の道に進む若者を少しでも増やしたい」という筆者らの狙いからすると、少し内容が難しすぎる気がする。
それを補うための工夫が、後ろから始まる「解説」だ。本文である前編が縦書き、95頁なのに対し、解説は横書き、160頁、その上フォントも小さい。別々の本を1冊にまとめたとすらいえるこの解説は、初心者の理解の助けになるだけではなく、化学知識のある専門家にも、知識のバージョンアップに役立ちそうだ。
後編の解説によれば、空気の組成は、窒素(77.3%=体積%、以下同)、酸素(20.7%)、水(1%)、アルゴン(0.92%)、二酸化炭素(0.040%)ネオン(0.002%)。
今、気象変動をひき起こす悪役として注目されている二酸化炭素の量はアルゴンより少ない。しかし、産業革命以前は0.028%前後で安定していた。それが42%以上も増えて、ついに0.04%の大台を超えたグラフをみると、空恐ろしくなる。
ところで、解説編の「おわりに」によれば、カエサルは火葬にされた。「火葬の終わるころになって突然激しい雨が降りだし、遺灰が流れてしまったため、墓はない」(塩野七生『ローマ人の物語』)と伝えられているという。
ただ、火葬にすると、遺体の90%ほどが水蒸気、二酸化炭素、窒素酸化物として、再び空気分子の仲間に戻る。いま私たちが吸う空気中のカエサル由来分子としては、最後のひと息からより、遺体からの方がはるかに多そうだ。
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