今年(2018年)も残りひと月を切り、「平成最後の」という枕ことばが、あちこちで見られるようになった。平成とはどんな時代だったのかを巡る論考として、一足早く出たのが本書『平成精神史』(幻冬舎新書)である。
平成の30年は西暦で言うと、1989年から90年代、2000年からのゼロ年代、10年代と重なるが、著者の片山杜秀さん(慶應義塾大学法学部教授)は、西暦と異なる元号の区切りで論じる意味は、天皇の存在を意識することからしか出てこないという。
今上天皇の戦後民主主義への思い、被災地との向き合いが平成を特徴づけ、その果てに2016(平成28)年夏の天皇の「お気持ち」の表明から、自らのご意志で終わらせた「平成」。
片山さんは、東日本大震災・原発事故を招いた日本と、第二次大戦で悲惨な敗戦を経験した日本とは重なってくるところがあるという。「持たざる国」が危ない橋を渡りそこねてひどい目に遭うということで同型的と指摘する。昭和は精神力でやりくりしようとして失敗、平成はエネルギーの乏しい日本に原子力は不可欠として失敗した。
平成に経験した「第二の敗戦」から、日本は何も学ばず、刹那主義にいっそう拍車がかかっていると危惧する。「原発事故、地震リスク、少子化、北朝鮮という具合に、全国家的・全国民的危機が束になって折り重なっているような日常を私たちは生きています。これだけの複合危機になると、解決のヴィジョンなど示しようがない。どうせいつ滅びるか分からないから、楽しんで考えられることだけやりましょう。東は東京オリンピック、西は大阪万博で一花咲かせて散りましょう。そんな刹那主義が平成の日本を覆い尽くしているのではないでしょうか」。ニヒリスティックな楽天主義が平成期に顕著だったと批判する。
日本最大の右派系市民団体「日本会議」が結成されたのは1997(平成9)年。宗教右派の指導的人物でつくる「日本を守る会」と元号法制化実現国民会議の後身として文化人、経済人で構成する「日本を守る国民会議」が大同団結して結成された。人的構成も性質も異なる二つの団体を束ねたキーパーソンとして、片山さんは「日本を守る国民会議」議長の作曲家・黛敏郎の存在が大きかったとして、詳細に検証する。思想史家であり音楽評論家でもある氏ならではの仕事だ。
黛の人生には1960年代から80年代にかけて、音楽家として宗教界とつながりを強めた深い経緯があったという。75(昭和50)年には、カンタータ「慈母観音讃歌」、80(昭和55)年にはカンタータ「只管打坐」を初演、81(昭和56)年にはオラトリオ「日蓮聖人」を作曲するなど、宗教団体から委嘱された仕事を多く手掛けた。
もともと無国籍性を売り物にしていた黛は、京都で映画の仕事をするうちに梵鐘の音に影響を受け、58(昭和33)年「涅槃交響曲」を発表、国際的な知名度を確立したという。以後、日本のありとあらゆる伝統を吸収し、創作のエネルギーを見出した。なかでも平安以前の奈良仏教の声明などの音楽に大きな価値を置くようになった。そこから右派宗教界の大立者である薬師寺の指導者、橋本凝胤、高田好胤とのつながりが出来、さらに70年親友だった三島由紀夫の自決事件があり、黛は政治的運動に急転回したと見る。
もう一つ、日本会議の肝として、小田村寅二郎(戦中からの右派学生運動の指導者、99年没)と四郎(拓殖大学総長を経て日本会議副会長、2017年没)の兄弟にも触れている。この兄弟の曽祖父が幕末長州藩の志士として有名な楫取(かとり)素彦で、吉田松陰の尊王攘夷を引き継いでいた。
片山さんは「国家や資本主義にとって国民が足手まといになる。そんな時代が世界的に急激に進んだのが、日本の元号では平成に相当する時代でしょう。次の元号のうちにはそのことがいよいよ露わになるのではないかと予想します」と書いている。資本主義に陰りが見えてきて、実のない「幻のセーフティ・ネット」としてナショナリズムを鼓舞する美辞麗句が登場すると、冷静に分析する。安上がりに使えるナショナリズムとして政権与党から有望視されたのが日本会議であり、「同床異夢のナショナリズムが、平成ナショナリズムの正体」と喝破する。
ポスト平成はどんな時代になるのか? 片山さんは「現代の学徒出陣としての五輪ボランティア」として、2020年の東京オリンピックのための学生ボランティア募集にきな臭いものを見ている。「社会の至るところで自助、共助という名のボランティアが推奨されていく。日中戦争から始まる総動員体制が、二度めの東京五輪をきっかけに反復的に再現されてゆくのではないでしょうか」と危惧するのだ。
本欄では『「右翼」の戦後史』を紹介している。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?