1960年代後半(昭和40年代)に火が付いたフォークソングは、近年の昭和ブームもあってか見直され、東京都内などでは、それをテーマにした居酒屋が人気を集めている。フォークといっても、初期のカレッジフォーク、メッセージソングやプロテストソングから、70~80年代にかけてのいわゆるニューミュージックにジャンル分けされるものまでさまざまだ。
本書『フォークソングの東京・聖地巡礼 1968-1985』(講談社)は、フォーク系音楽の登場から、その系譜が全盛時代を迎える20年間を、出来事に応じた都内の各所を観察点にして綴ったもの。現在も活躍するアーチストの名も数多く、フォークを知らない世代も同時代を仮想体験できるよう仕立てられている。
「フォークの神様」と呼ばれた岡林信康が、伝説のグループ「はっぴいえんど」と出会った新宿区の御苑スタジオ、小田和正が赤い鳥に衝撃を受けたというコンテスト会場の新宿厚生年金会館(東京厚生年金会館)、吉田拓郎が上京して始めて一人暮らしをした高円寺(杉並区)...。そして高円寺には伝説がもう一つ。ここにあるロック喫茶「ムーヴィン」は、大瀧詠一と山下達郎が出会うきっかけになった店として知られているという。
著者は1955年生まれの編集者。東京で育ち大学卒業後、編集プロダクション、雑誌編集部を経てフリー。中学生の時にフォークと出会いコンサートにしばしば出かけた。編集者として広告から昭和という時代を描き出す『昭和広告六十年史』(講談社)などを手がけ、吉田拓郎についての書籍などに携わっている。
はっぴいえんどは、作詞家の松本隆や細野晴臣、大瀧詠一、鈴木茂らが結成したグループ。1970年2月のこの出会いをきっかけに、岡林に請われそのバックバンドを務めるようになる。本書ではメンバーらの過去のインタビューを引用して、岡林のバックに入ることに気乗りしていない様子が明かされる。しかし、高額のギャラ提示にビジネスとして割り切ることにした。当時の知名度は岡林の方が断然上だったそうで、彼らが得たものは少々の知名度アップだけで、プラスにはほとんどならなかったと素っ気ない。
懐かしのフォークソングを特集するテレビ番組などで必ずといっていいほど紹介される1曲に、かぐや姫の「神田川」(1973年9月発売)がある。著者の調査によると、東京都内にはフォークソングの歌碑が2つだけ存在し、その一つが「神田川」。中野区内の神田川に近い公園にあるのだが、調べを進めると「三畳一間の下宿」も「二人で行った横町の風呂屋」も別の場所にあったという。
「神田川」誕生で最も重要な場所は、実は神田川ではなく、東京・四谷にあった文化放送だった。神田川の作詞者、喜多條忠は当時、同局の番組台本を書いており、そのスピードは驚異的だったという。それを目撃した南こうせつが、筆の速さを見込んだらしく、その日が締切になっていた作詞を依頼。喜多條はタクシーでいったん帰宅するのだが、その途中、神田川をわたったことでひらめき、自宅で15分もかからず詞を書きあげた。その詞を南こうせつが電話で聞き書きし、電話を切った5分後に曲ができたと連絡があったという。作詞作曲にかかったのは計20分。フォークの名曲はコスパの点でも名曲だったのだ。
「神田川」は四畳半フォークなどと呼ばれ、同系統の曲が続いたこともあったが、その後に来たのは、いわゆるニューミュージック系のブームだ。その流れをつくったのはラジオの深夜放送。フォークシンガーらも数多くパーソナリティーとして出演し盛り上げた。この点で本書がクローズアップするのはTBSラジオ(港区)。なかでも、同局の深夜番組で、シンガーなどではない林美雄アナウンサーが担当した「林美雄のパックインミュージック」だ。
デビューしたころは話題になることもなかったユーミンこと松任谷由実(当時・荒井由実)を「天才」と絶賛し、番組で曲をかけ続けバックアップ。いまではスーパースターのユーミンだが、デビューからおよそ1年半、林パック以外のメディアでは取り上げられることがなかったという。「八月の濡れた砂」の石川セリや、山崎ハコも、林パックによる「いいね」の後押しがあって知られるようになったものだ。
同じTBSの深夜放送で「馬場こずえの深夜営業」でも、林パックと連動するように、ニューミュージック系のアーチストをとりあげ、大瀧詠一、山下達郎らの後押しになったのではと評者は記憶している。本書の第2弾が出されることがあれば、そのあたりの報告もお願いしたい。
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