瀬戸内海に浮かぶ直島は、いまや「現代アート」の聖地として海外からも多くのファンを集める有名な島となったが、少し前までは銅の製錬所がある過疎の離島だった。この島を一変させたプロジェクトに15年間、美術担当としてかかわった秋元雄史さんが本書『直島誕生』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)の著者である。
東京藝術大学を出て美術作家兼ライターとして活動していた秋元さんが目にした新聞の求人広告が始まりだった。「進研ゼミ」で知られる、岡山のベネッセ(旧福武書店)が現代アートの美術館を開館するための学芸員を募集していた。最終面接に1人残ったが、直島に行ったこともなければ福武書店の美術コレクションを見たこともなかった。社長の福武總一郎氏に具体的なプランを出すよう「追試」を言い渡される。秋元さんは作品に○×をつけ、「名品主義は卒業し、同時代の生きたアートをコレクションすべきである」と回答し、採用された。35歳の新社会人の誕生だった。
1992年、入社1年後にベネッセハウス・直島コンテンポラリーアートミュージアムがオープンした。設計は安藤忠雄氏、展覧会は三宅一生展。華やかなオープニングが終わるとギャラリーに閑古鳥が鳴いた。次の企画を担当することになり同時代の日本の現代アーティストを次々に起用した。ところが突然の禁止令。館内は展示替え禁止となったため、「外」に展示することとし、草間彌生さんの「南瓜」などを現地制作するという妙手で予算も抑えた。ホテルなのか美術館なのかという社内論争を乗りこえ、アート活動が展開してゆく。古民家をアート作品化する「家プロジェクト」をきっかけに住民とのかかわりも増え、島全体が活性化した。
そんな順調な流れに棹をさすことが起きた。福武氏がモネの『睡蓮』を60億円以上で買うことを決め、直島に置くように命じたのだ。せっかく現代アートの島として認知されてきたのに、なぜモネなのか、と秋元さんは悩んだ。そこで、モネを現代アートの文脈の中に置き、二人のアメリカの現代アート作家と並べる美術館をつくることを福武氏にプレゼンした。そして2004年、安藤忠雄氏設計の「地中美術館」として結実する。さらに新しいホテルも開業、当初年間3万人程度だった施設への来場者は12万人へと増え、単年度黒字を達成するようになった。
現代アートの島へと変貌した直島だったが、秋元さんは福武氏と決別する。ほかの島への展開を考える福武氏との方向性の違いだった。秋元さんは直島にこだわりたかったのだ。
06年に秋元さんは退職し、翌年金沢21世紀美術館館長に就任、国内最多の年間255万人が入場する美術館へ育て上げる。そして今は母校の教授と練馬区立美術館長を務める。
いまや直島をはじめとする瀬戸内の16島の島々が現代アートとかかわるようになり「瀬戸内国際芸術祭」が開かれる。その中核となる直島のアートがいかにして生まれたかを記録する詳細なドキュメントであるが、35歳の元アーティストが会社組織の中でいかにして自分の夢や理想を実現していったかを知る「人生の書」としても読むことができる。
もちろん福武氏が率いるベネッセという一風変わった会社があったからこその現状ではあるが、個人のがんばりで状況をつくりだすことができることを知った。東京の美術界を見ているだけではわからない現代アートのダイナミズムが伝わってくる好著だ。
当サイトご覧の皆様!
おすすめの本を教えてください。
本のリクエスト承ります!
広告掲載をお考えの皆様!
BOOKウォッチで
「ホン」「モノ」「コト」の
PRしてみませんか?