まだ携帯電話が普及していなかった頃、待ち合わせには苦労したものだ。特に新宿では往生した。その結果、ピンポイントで東口中央改札口とか紀伊国屋書店1階エスカレーター前とかピンポイントで指示する人が多く、それらのスポットはいま以上に人で混雑していた。ところが携帯電話の登場により、「いまどこ?」「何が見える?」といったやりとりで目的地まで誘導することがリアルタイムで可能になった。さらに、スマートフォンと地図アプリが普及し、目的地の店などの地図情報は事前に交換するのが当たり前になった。また分からなければ、その場で検索し、目的地まで行くことが出来る。
こうしたことが可能になったのは、地図がデジタル化されたこととGPS(全地球測位システム)が普及したことによるものだ。本書『地図の進化論』(創元社)は、北イタリアで先史時代紀元前1500年頃に岩に描かれた線刻画による地図(ベドリーナ図)の登場から、さまざまな図法の紙の地図を経て、デジタル地図が全盛の現代、さらにその未来を描いたものだ。著者の若林芳樹さんは、首都大学東京大学院都市環境科学研究科教授で地図の専門家だ。
少し前に話題になった「地図が読めない女」の真相について1章を割いて検証している。ピーズ夫妻による『話を聞かない男、地図が読めない女』が出て以来、女性は地図が読めないとか方向オンチが多いという固定観念が広まったという。著者は空間を認知する男女差について、これまでの研究を紹介している。3次元図形を回転させるテスト(心的回転テスト)では男女差のあることがほぼ認められている。その結果、道案内するときに女性は道沿いの建物などの目印を使いがちで、男性は絶対方位(東西南北)や距離を用いる傾向があるという。
なぜ空間認知に男女差があるかについては以下の3つの説があり、1 欠損説(生物学的要因で説明する) 2 差異説(社会的・文化的要因で説明する) 3 非能率説(能力自体に差はないが、問題解決の方略に違いがあるため、結果に差が生じると考える) 著者は「生まれつきの性質というより、経験による影響を強く受けており、社会的・文化的な性役割やステレオタイプによって、それが強化されていると考えられる」としている。
実際に女性利用者を意識した『Link Link! Tokyo&Yokohama』(2003年、昭文社)という地図は、上を必ずしも北に固定せず、街路での進行方向を想定して柔軟に向きを変えたり、目印になる建物の写真を添えたり、女性目線で作られ、初版で11万部を売り上げたという。
頭の中の地図が脳内に実在することを生理学的に証明した研究者3人に、2015年のノーベル医学・生理学賞が贈られたそうだ。1948年に心理学者のトールマンが考えた「認知地図」という概念を、1971年、英国のオキーフ教授による脳内の「場所細胞」の発見と2005年、ノルウェーのモーザー夫妻による「グリッド細胞」の発見によって、動物に「脳内GPS」が作り出される仕組みが明らかになったのだ。
この認知地図は自己中心的であり、教育や知識、経験によってさまざまであることが分かっている。アメリカでは12歳の児童のうち5人に1人が、世界地図上で自分の国をブラジルと誤って指し示したことが報道され、1980年代後半に地理教育復興運動が始まったという。
1970年代以降、地理空間データがデジタル化され、蓄積され、さまざまな表現で出力されるようになった状況を著者は「地図界のカンブリア爆発」と呼ぶ。さらにウェブ技術を駆使したグーグルマップ・アースの登場は地図の歴史を塗り替えた。大航海時代に次ぐ、「地図作りの2度目の黄金時代」という見方もある。
カーナビは自分視点で見た究極の自己中心的な地図とも言える。その結果、男女を問わず地図を読めない人が増えている。またグーグルのような便利な検索ツールの登場により、物事を覚えなくなる「グーグル効果」が若い世代に見られるようになったと著者は懸念する。アメリカの若者の5人に1人がアマゾン川はアフリカにあると答えるそうだ。
地図の未来はどうなるのか。オックスフォード大学の2人の教授の論文によると、地図に関連する職種が10~20年以内にコンピュータ化される確率は以下の通りだ。96%...測量・地図技能者 89%...タクシー運転手 88%...地図作成者・写真測量技師 38%...測量士 25%...地理学者
自動運転技術にAI(人口知能)が組み込まれたり、地図の作成にAIが利用されるようになったりする時代はまもなく到来するだろう。しかし著者は「AIは地図を読めるか?」 と問題提起している(本質的には理解できないというのが著者の見解)。AIの進化を悲観的にとらえず、新しい時代の地図を作り、使い、新しい仕事が生まれるだろうという著者の予測が当たることを期待したい。
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