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人工生命体の誕生は人類に何をもたらすのか?

合成生物学の衝撃

 合成生物学という書名を見て「ハハーン」とうなずく人はかなりの専門家だろう。本書『合成生物学の衝撃』(文藝春秋)。日本ではまだほとんど知られていない学問分野だ。生物の実験でなじみのある試験管やシャーレの中ではなく、コンピューター上で生命の設計図であるゲノムを設計し、その情報をもとに新たな生命体をつくりだそうとする最新の試みだ。

 アメリカでは近年、この分野の研究が急速に進んでいる。そこに、インターネットやGPS技術の産みの親といわれる米国防総省の研究機関・国防高等研究企画局(DARPA)が大学や企業の研究者に対して莫大な研究資金を提供していると聞いて、背筋が冷やっとする人は少なくないだろう。

「捏造の科学者」受賞後の第一作

 本書は2014年、ノーベル賞級の発見と世間を騒がせた「STAP細胞事件」を科学記者として追い、「STAP細胞発見」の時の人となった小保方晴子氏の研究を詳しく検証し、研究が虚偽だったのではないかという疑惑が高まる中で、研究リーダーが自殺に追いやられた一連の事件を報じ続け、専門家からも高い評価を得た毎日新聞科学環境部の須田桃子記者の新著だ。須田氏はSTAP細胞事件の全容を『捏造の科学者』(文藝春秋)として一冊にまとめ、大宅壮一ノンフィクション賞を受賞している。受賞後に渡米し、この分野の研究で定評があるアメリカ東海岸のノースカロライナ州立大遺伝子工学・社会センターの客員研究員として約1年間、合成生物学研究の現状を取材していたという。

 そもそも国防総省がなぜ合成生物学の研究に注目するのだろうか。DARPAが生物兵器や化学兵器の開発につながる最先端技術と認識して関心を持っていることは間違いないようだ。

旧ソ連で生物兵器を開発した研究者の衝撃の証言

 本書のハイライトは旧ソ連で1980年代、実際に生物兵器の研究に携わっていた研究者の直接の証言を得たことだろう。シベリアの生物兵器研究所で研究していたセルゲイ・ポポフ氏で、ソ連崩壊の混乱のさなかにイギリス経由でアメリカにわたり、現在はバージニア州で大学教授をしている。

 彼はペスト菌に、馬に脳炎を引き起こす別のウイルスの遺伝子を挿入し、自然界にない新たな病原体をつくる実験の責任者だった。ソ連では1979年、ウラル山脈に近い生物兵器製造施設から猛毒の炭疽菌が漏れ出し、公式発表でも66人が死亡している。政府は徹底した隠蔽を図り、汚染肉による感染だったという苦しまぎれの発表をしていたという。

 ポポフ氏の秘密研究室は常時、KGB(旧ソ連の秘密警察)の厳しい監視下に置かれ、すべての電話での会話は録音され、盗聴され、分析されていた。生物兵器の研究に嫌気がさしていたポポフ氏は、ソ連崩壊の混乱に乗じて西側に逃れた。現在は専門知識を生かしてアメリカで研究職についているが、生物兵器の研究に戻る気持ちはまったくないという。

DARPAは最先端技術研究者の大きな資金源

 著者はDARPAの研究室長やプログラム・リーダーなど、アメリカでのこの研究の責任者に会うことにも成功した。DARPAが実施している研究は一般にデュアル・ユースといわれ、軍事、民生両用に利用できるものが多い。インターネットやGPSは現代社会になくてはならない存在だが、元は米軍の高速データ通信ネットと航空機や巡航ミサイルなどを精密に制御するための位置情報技術だった。

 DARPAは大きな予算を持つが、自前の研究所を持たない独特の研究組織だ。プログラム・マネジャーと呼ばれる専門家が全米各地の大学や企業の研究者のネットワークをつくり、研究費を配分する。成果が出るかどうかわからない未踏の分野に気前よく資金を出すDARPAは研究者には非常にありがたい存在のようだ。最初は軍から研究資金を受け取ることに躊躇しつつも、つい誘いに乗ってしまう研究者が少なくないことが取材で詳しく明らかにされている。一線の研究者とDARPAを結ぶ役割を果たすプログラム・リーダーも大学の終身教授職をなげうった現役の研究者だと聞いて、あっけにとられる。

 旧ソ連やアメリカで、軍と最先端研究の関係や実態を知る上で、こうした事実が詳述される2つの章を読むだけで、本書を開く価値は十分にあるといえる。

 DARPAの研究に懐疑的な立場を隠さない著者の取材に、軍の組織であるDARPAがよく応じたものだと感心する。STAP細胞事件の取材で発揮された専門知識や綿密で粘り強い取材力が遺憾なく発揮されたようだ。

内容はやや専門的で一定の知識が前提に

 だが、かなり専門的な内容だけに、基礎知識なしにただのノンフィクションとして読み進むのはやや難しい。DNA、RNA、mRNAなどの用語はごく簡単に説明されているが、高校生物の教科書程度の知識は前提にしておく方がよさそうだ。本書でもやや詳しく説明されているが、人工生命体作成の基礎となる技術(CRISPER-CAS9=クリスパー・キャスナイン)については、この手法を開発したアメリカの研究者による研究の歴史とその技術の問題点についての著作『CRISPER 究極の遺伝子編集技術の発見』が文藝春秋から刊行されている。本書を読む前に読んでおけば、かなり頭の中が整理される。

 新聞記者である須田氏の筆致は簡明で、説明もわかりやすいが、現代の最先端技術は、そうした説明だけで理解することはなかなか難しい。先端技術の軍事利用に関心を持つ人には必読書になる内容だが、ここをベースにさらに関心の範囲を広げていくことも求められそうだ。こうした読者を意識してか、巻末には丁寧な主要参考文献のリストがあり、日本語のわかりやすい文献も含まれている。こちらも合わせて読み進んでいけば、この分野の技術の進展やその問題点が理解しやすくなるだろう。

BOOKウォッチ編集部 レオナルド)
  • 書名 合成生物学の衝撃
  • 監修・編集・著者名須田桃子 著
  • 出版社名文藝春秋
  • 出版年月日2018年4月15日
  • 定価本体1500円+税
  • 判型・ページ数B6判・233ページ
  • ISBN9784163908243

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