いろいろな切り口で日本史関係の出版物が続いている。本書『流刑の日本史』(ちくま新書)は歴史ドラマなどてよく出てくる「流罪」に着目したところがユニークだ。失態はどうだったのか。何を根拠に行われていたのか。
著者は歴史学者で、戦国時代などについて多数の著書がある渡邊大門さん。時代と共に変わり、身分によっても違いがあった流罪について通史的に理解できる。
いつのまにか流罪という罪は消えたが、いまも「島流し」という言葉は残っている。著者は本書の書き出しをそんな話から始める。たしかにサラリーマンの世界で「島流し」の悲哀を味わうことは少なくない。せっかく大企業に入ったのに、地方に飛ばされたり、閑職や子会社に異動させられたりすることだ。
しかしながら歴史上の流罪は、そんな甘いものではなかった。交通事情が悪く、都と鄙の格差がケタ違いだった時代。流罪の宣告を受けることは、今生の別れを意味した。
本書によると、古代で最初の流罪は五世紀。允恭天皇の第一皇子の木梨軽皇子は第二皇女の軽大娘皇女との近親相姦が発覚、皇女が伊予に流された。流罪第一号は女性だった。皇子は皇太子であるという理由でいったん赦されたが、反乱を起こして捕まり、同じく伊予に流されて共に自害したという説と、反乱を起こした末に自害したという説があるそうだ。当時すでに近親相姦がタブーであり、皇族といえども処罰されたことがわかる。
701年施行の大宝律令にはすでに流罪の規定がある。死刑の次に重い罪だった。仏教に深く帰依していた聖武天皇は死罪には消極的で、罪一等を減じ、結果として流罪が増えたという。810年の薬子の乱で、藤原仲成が処刑されたのが最後の死罪で、818年には死罪自体が廃止された。次に死罪が執行されたのは1159年の平治の乱で敗北した藤原信頼ら。なんと約350年間、日本には死罪がなかったそうだ。これは知らなかった。
流刑になった天皇もいる。八世紀の淳仁天皇は上皇と対立し、藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて廃帝となり、淡路に流された。十二世紀の崇徳天皇も保元の乱で後白河法皇に敗れ、讃岐国に流された。
1232年制定の御成敗式目ではさらに法整備が行われた。殺人は死刑または流罪。人を殴ると財産没収または流罪など。
一般に流罪は、遠隔地に送られるとはいえ、島に流されるケースは少なかった。後鳥羽上皇や後醍醐天皇の隠岐、俊寛の喜界ヶ島というのは異例だった。それだけ厳しい処分だったことがわかる。
御成敗式目には興味深い規定もある。裁判に提出した文書で、「謀書」(文書の偽造)が判明すると、侍は財産没収、もしくは流罪。国会に改竄文書を出した官僚たちにも味わってもらいたい条文だ。
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