1992年のプロ野球ドラフト会議でヤクルトに1位指名されて入団した投手、伊藤智仁は鋭く曲がりながらもスピードが落ちない高速スライダーを武器に、1年目の93年のシーズン、4月20日から7月4日まで14試合に登板し7勝(2敗)を挙げた。しかし、故障でルーキーイヤーはこれで幕。伊藤の高速スライダーは"魔球"ともいわれ、当時の野村克也監督がホレ込み、依存が過ぎてパンクしたものだが、この故障が後々までたたり結局、1年目前半の輝きは戻らないまま2003年のシーズンを最後に現役を終えた。
伊藤が入団時のヤクルトの捕手、古田敦也は伊藤のスライダーを「直角に曲がる」と表現。対戦した中日の立浪和義は「あれは魔球」と呼んだ。そして野村監督は「まるで、稲尾(和久)」とシーズン42勝の日本記録を持つ大投手を引き合いに出してピッチングを絶賛した。著者のノンフィクション作家、長谷川晶一さんは子どものころからのヤクルトファンで、同球団やプロ野球に関係する著作が多く、その投球が伝説となっている伊藤の半生記を強く望んで手がけたものだ。
スライダーの威力を見込まれて酷使を招き、それが投手としての寿命を縮める結果を招き伊藤は"悲運のエース"と呼ばれることになるのだが、本人にはまったく暗さがないという。そのことが、本書これまでの多くのプロ野球選手の評伝とは違った趣にしているようだ。著者は週刊ポスト(2017年12月1日号)の「著者に訊け!」で「つらいとか悔しいとく言葉を引き出そうとしても、本人が悲壮感ゼロなんです。それこそ僕も彼に関して、『栄華を極めた人間の不運な転落劇』的な世間の目を感じていて、その点も聞いてみたら、彼は『えっ、俺ってそう思われてるの? 世間ってそんなにイジワルなの?』って(笑い)」と述べている。
伊藤の現役時代のことを知るファンにはおそらく、この元投手がプロ野球選手として「幸運な男」に思われないだろうが、マウンドでの姿や表情からはうかがいしれないプラス思考に、知られざる一面を見るに違いない。
1992年のバルセロナ五輪で3試合に先発登板し3勝。同大会で計27三振を奪いギネス記録を作り銅メダル獲得に貢献した。同年のドラフト会議では石川・星稜高校の松井秀喜とともに目玉候補とされ、松井4球団に対し、3球団の競合になった。93年のルーキーイヤー、伊藤は前半戦だけの7勝に終わったものの、新人王を獲得した。"ゴジラ"の異名を持った怪物新人を差し置いて受賞したことは「幸運な男」だったからかもしれない。
伊藤はドラフトで指名されて入団して以来、現役引退後もコーチなどとしてヤクルトに所属していたが2017年のシーズンを最後に同球団を退団した。
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