歌手のペギー葉山さんは80歳を超えてからも精力的に舞台に立っていたが2017年4月10日に肺炎で入院すると、容体が急変し2日後に亡くなった。享年83。高知県出身の著者は、故郷ではだれもが知る愛唱歌であり、ペギーさんの代表曲の一つでありながら、作者が分かっていない「南国土佐を後にして」の誕生について取材を重ね、その仕上げに、ペギーさんが亡くなる4か月前の前年の暮れに長時間のインタビューを行っていた。だから、本書はペギーさんの「遺言」でもあるという。
「南国土佐...」の歌唱依頼を当初はかたくなに拒み続けたペギーさんだったが、それが後に自身を国民的歌手に押し上げた"奇跡"。また、この楽曲を持ち歌にしたことで、のちに、これも国民的愛唱歌となる「ドレミの歌」と出合う"奇跡"ももたらされた。本書は「南国土佐...」に秘められた謎を追ったノンフィクション。
「南国土佐...」の原曲は、第二次大戦で中支、南支と呼ばれた中国中部・南部を行軍した「歩兵236連隊」のなかで、土佐民謡のよさこい節を織り込んで自然発生的に歌われるようになった「南国節」とされる。同連隊はほとんどが高知県出身者で構成され「鯨部隊」が通称名。ささやなか宴席の場で声を合わせ、あるいは行軍中にも一人ひとりが小さな声「南国土佐を後にして、中支へきてから幾歳(いくとせ)ぞ...」と口ずさんでいた。
だれが作ったかは分からず、節回しも人によってまちまちだったが、同部隊の元隊員によれば、この歌を口にすることで、故郷に思いを馳せ、勇気を奮い立たせていたという。
戦後、故郷に戻った鯨部隊の隊員らにより「南国節」が広まり、採譜や歌詞の整理などにより「南国土佐を後にして」に生まれ変わる。そして1958年(昭和33年)12月のNHK高知放送局の開局記念番組で、当時売り出し中だったジャズ歌手のペギーさんにこの歌を歌わせたいということになったが、ペギーさん自分のイメージに合わないと断る。ところがNHKの担当プロデューサーはあきらめない。トイレに行くペギーさんを待ち伏せしてまで説得を続けたという。
それでも応じないペギーさん。最後にはだまし討ちにあうような恰好で歌うことになった。それもプロデューサーが、この歌は、ペギーさんの日本人には珍しいアルトの歌声こそが合う、と信じていたからという。プロデューサーの見込みは的を射ていたようで、ペギーさんの「南国土佐...」は大反響を呼ぶ。翌年に発売されたレコードは100万枚を売り上げ、ペギーさんは国民歌手となる。
「南国土佐...」の反響は国内にとどまらなかった。レコードの発売の1年後、米国の日系人から、日米修好100周年を記念したイベントに招かれる。そして渡米直前に対談した三島由紀夫のアドバイスに従いニューヨークでブローウエーミュージカルを鑑賞。「サウンド・オブ・ミュージック」の劇中歌「ドレミの歌」と出合う。ペギーさんは、終演後に立てなくなるほどの感動を覚えたという。
ペギーさんはこの楽曲を日本に持ち帰ることを決め、同劇のプログラムを購入し、観劇をしたその日に宿泊先のホテルで徹夜で訳詞に取り組んだという。ペギーさんが訳詞した「ドレミの歌」は、東日本大震災で被災した各地で被災者を励ます歌としても歌われたという。ペギーさんに命を吹き込まれた「南国土佐...」が、恩返しをするかのように、こんどは"一目ぼれ"するような歌と引き合わせてくれたようなめぐりあわせだ。
週刊新潮(2017年10月26日号)で書評家の東えりかさんは本書を取り上げ「一つの歌が激動の昭和と平成を駆け抜けた記録である」と述べている。
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