「敵は本能寺にあり」と明智光秀は実際には言っていないそうだが、それが「本能寺の変」(1582年)の序章として本編とセットになって語られることは多い。その一事が万事のように、この戦国時代最大の政変をめぐっては、前後にも不可解な出来事が数多く、これまでさまざまな学説が提示されてなお、織田信長がこの事件で最期を迎えることになった「真相」は分かっていない。
本書『信長はなぜ葬られたのか』(幻冬舎)は、その「真相」に、直木賞作家で、現代の歴史小説の旗手である安部龍太郎さんが迫ったもの。「日本史の中でも、本能寺ほどミステリアスな事件はない」という安部さん。それは、日本史の立場から事件を理解しようとするなど視野が狭かったためで、世界史の立場にズームアウトすることで見えなかったことが見えてくるという。
本書は書き下ろしではなく、雑誌などに連載したものを見直し大幅に加筆修正を施してまとめられたもの。「昔から信長に興味があった」という安部さん。1999年7月から1年半にわたり「信長燃ゆ」を新聞連載、同作品で「本能寺の変」についても独自の視点から描いて、自身の「戦国史観」を世に問うてきた。
著者は「本能寺の変」については「朝廷と室町幕府の復権を果たそうとしている勢力が明智光秀を動かして起こしたものだという説を支持している」立場をとる。そして「その黒幕は時の太政大臣近衛前久(このえ・さきひさ)だろうし、豊臣秀吉も何らかの形で関与していたか、事前に情報をキャッチしていながら、信長を見殺しにした可能性が高い」とみる。だが、「信長燃ゆ」作品の評判が上々だったにも関わらず、この見方はなかなか浸透しなかった。そこで「この壁を打破する方法」として、小説とは別の形で出版し、世に問い直そうとしたものだ。仕切り直しの背中を押したのは「信長燃ゆ」執筆時には「まだ理解が及んでいなかった」国際情勢の影響の大きさを知ったことだ。また、天皇と信長に軋轢があったことなどを知り「目からウロコが落ちた」思いをしたことも大きいようだ。
本書の内容は大きくふたつに分かれる。前半では、室町幕府の衰退の一方、勢力を強めてきた武家と朝廷の力関係がそれまでと逆転した様子を具体的に指摘。戦国武将のいわば筆頭の立場にあった信長が標的にされる「本能寺の変」に至る成り行きを詳細に説明する。事件へのプロセスにあるのは、近衛前久と信長の対立。知られざる前久の影響力の大きさなどに触れ、史料は当時の状況の分析などから、信長とは二十数年間にもわたり「対立や和解を繰り返し」てきたことを示す。そして「変は公武を代表する二人の傑物の相克によって引き起こされた」と著者は自身の見解を導いていく。
なぜ光秀がその刺客となったのか、光秀は誰に殺されたのか、信長の遺体はどうなったのか。なぜ秀吉が奇跡的とも思われる「中国大返し」を実現し信長の跡を継ぎ天下をつかむことができたのか――。著者は、事件にまつわるミステリーについても次々に「真相」を解明して提示する。ここで目からウロコが落ちる思いをするかどうかはあなた次第だ。
後半では、事件への流れを加速させ、ある意味、こちらの方が真相だったかもしれない国際情勢の影響へと視点を変える。事件に対する見方をズームアウトさせ「世界史の中の本能寺の変」として検討する新しい試みだ。
著者は当時が大航海時代であったことと、国内のキリシタンの存在に注目。信長は日本にやってきていたイエズス会を友好的に遇していたが、ポルトガルを併合したスペインの意を受けた同会をめぐり信長は、新たな外交関係をきずく必要に迫られたという。同会のアジア巡察師・ヴァリニャーノと信長は数か月間にわたり交渉を重ねたが両者は決裂。これにより、信長の政権が不安定化しクーデターへの動きを加速させたと著者はみる。
また、本書によれば戦国時代は現代で知られている以上に「キリシタンの時代」であり、黒田官兵衛、高山右近らはゴッドファーザーとしての地位を得ていた。彼らは、本能寺の変の後に決起し、光秀を討つことに加勢することで秀吉に天下を取らせることを画策。秀吉の中国大返し実現に一役かったという。
戦国時代は世界の大航海時代であり、大航海そのものとは関係がなかった日本だが、実はその波の中にあったと著者は述べる。そして、その対処の問題に直面した最初の為政者が信長だった。だが、鎖国政策をとったのちの江戸時代に歴史が書き換えられ、明治維新を経ても修正は行われず、戦国時代の真の姿が見えなくなったという指摘には虚をつかれる思いがする。
史料が不足している部分を小説家ならではのひらめきや想像力で埋めている面があり、本書に異を唱える向きはあるに違いない。だが歴史に対する光の当て方は限定されるものではない。「歴史を歩く長い道。その下には今も多くの謎が埋まっている」と著者はいう。本書はそのことを示した一冊。
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