「ヴィンテージ古着」「スニーカー」「ナイキ エアマックス」……90年代に青春を過ごした人たちにとって、これらのキーワードは耳に馴染むだろう。
祥伝社から発行されていた雑誌『Boon』は、90年代ストリートカルチャーの発信源だった。ファッションだけでなく、カルチャーを深く掘り下げる企画で若い男性を中心に人気を博し、1996年に女優の広末涼子さんが表紙を飾った号では、65万部以上を売り上げたという。
しかしその後、しばらくしてから低迷期に入り、2008年3月に休刊。それから6年が経った2014年10月9日、ついに『Boon』が復刊する。新生『Boon』のターゲットは、30~40代男性。そう、かつての『Boon』読者だ。しかし、どうして今、復刊なのか?
今回、新刊JPは『Boon』復刊について、山口一郎編集長に聞いた。その前編をお送りする。
(新刊JP編集部/金井元貴)
■なぜ今なのか? 『Boon』復刊の理由
――いよいよ10月9日に『Boon』が6年ぶりに復刊されます。90年代のストリートファッションブームを牽引し、「ナイキ エアマックス」などでスニーカーのブームを生みだした伝説的な雑誌ですが、どうして復刊されることになったのでしょうか。
山口編集長:その前に、まず私の経歴からお話し出来ればと思います。1995年に祥伝社に入りまして、最初に配属になったのが『Boon』編集部でした。当時、ちょうどスニーカーとヴィンテージブームの前夜くらいで、そこから大変な盛り上がりをみせることになるのですが、そこに6年半在籍していました。その後、別部署を経て『Boon』に戻りまして、休刊となる2008年3月売りまでいました。
――休刊時には副編集長をされていらっしゃったんですよね。
山口:そうですね。『Boon』編集部には通算で10年以上在籍していたことになります。一番良いときも、休刊という残念な結果になったときも編集部にいました。だから、ずっと個人的に『Boon』に対してやりきれない想いがあったのです。
一方で、弊社が刊行している雑誌としては、『Zipper』という1993年創刊の、ティーン向け雑誌と、もう1つ『nina’s』という隔月刊のお子さんのいる女性をターゲットとした雑誌があるのですが、男性向けの雑誌がない状態がずっと続いていて、やはり男性誌もあるほうがバランスが良いのではという気持ちがありました。
でも、皆さんご存知の通り、今は部数減など、雑誌には逆風といえる状況が続いてきました。特に2008年頃はリーマンショックがあって日本経済全体が窄んでしまって、その影響をダイレクトに受けていたんですね。そんな中で、新しい雑誌を立ち上げるのは現実的ではありませんでした。
――では、『Boon』の復刊は、その風向きが変わってきたというのが背景にあるのですか?
山口:そうなんです。昨年の暮れあたりから、風向きが変わってきたという感触があります。雑誌の場合、女性誌よりも男性誌のほうが先に部数に影響が出てしまい、女性誌も追随して減数になってきました。ただ、一昨年くらいから、30代、40代向けの男性誌に希望の光があるように感じられました。その年代全ての雑誌というわけではなく、あくまで一部のということではあるのですが。
そういうこともあり、30代や40代向けの男性誌が、今ならいけるのではないかと思いました。ちょうどその世代が、10代、20代だった頃に全盛期だったのが『Boon』で、97年の最盛期には実売で65万部売れていたんですね。ちなみに私は今年42才になりますが、私より7、8才下の世代になると、『Boon』を読んでいたという人はぐっと少なくなります。
ということで、特定の年齢層にはかなり強いブランド力があることは分かっていましたから、『Boon』という冠をつけて40代向けに雑誌をつくってみたらどうだろうかと。懐かしいと思って手にとってくれるかもしれないので、新しい雑誌を立ち上げるよりは、アドバンテージがあるだろうと考えたんですね。これはすごく短絡的な考え方なんですが(苦笑)。最初に話は戻りますが、私自身、『Boon』に対する思い入れもあったし、もし今のタイミングを外したらもう二度と(復刊)できないかもしれないという危機感もあったので、関係する部署の全担当者に集まってもらって、プレゼンテーションをしました。
――では、山口さんが復刊への道をつくってきたのですね。
山口:そうですね。それとは別に、もう一つ、「いける!」と思ったところがあります。ちょうど当時の『Boon』読者たちが、年齢を重ねて、現場の責任者になるなどして、物事を決める権限があったりするのですね。取材面で言えばショップやブランドのプレスであったり、広告面で言えば出稿担当者であったり。
――なるほど。
山口:でも、もう少し年齢がいってしまうと、現場から離れてしまうので、今しかない!みたいな(笑)
――『Boon』は1990年代の中ごろ、ストリート系に絶大な影響力がありましたよね。私はちょうどそのすぐ下の世代になるのですが、『ナイキ エアマックス』はものすごいブームで、持っているだけでヒーローみたいな感じがありました。
山口:プレミアがついて、「エアマックス狩り」という言葉が生まれましたからね。でも、僕らはプライドがあったので(笑)、定価より高いクレジットでは載せないと決めていました。
当時はインターネットがまだ普及していなかった時代ですから、全国400件くらいのショップにFAXを毎日送って、在庫のリサーチをするんですが、定価以上の額で売っているお店もあるんですよ。そういう店は載せないようにしていました。定価が15800円であれば、FAXに15800円と書かれたお店だけ。
――当時の『Boon』編集部の雰囲気はどんな感じだったのでしょうか。
山口:毎日がお祭りみたいでしたね。当時の『Boon』編集部はスタッフがみんな若くて、当時の編集長と副編集長を除けば、現場スタッフはみんな20代でした。外部スタッフも若かったです。また、ショップスタッフをやっていた人がライターになって原稿を書いたりとかがありましたね。
――ショップの生の声をそのまま出すわけですね。
山口:そういう意味では、とてもリアルな雑誌でしたね。また、スタッフみんな独身だったから、家に帰る必要もない(笑)仕事もしていたけれど、ご飯食べにいったり、話し込んだり、部活みたいな感じでした。とにかく熱気はすごかったです。
――400件のショップにFAXを送って在庫の調査をしていたとおっしゃいましたが、そういったリサーチもすごく細かくやっていたのではないですか?
山口:リサーチはすごく細かかったです。全国のスニーカーショップを網羅して、毎号丁寧に調査しましたし、古着屋もそうでした。具体的な商品と状態、値段を一軒ごとに聞いていくんです。
――当時『Boon』は、ストリートファッション系雑誌として代表的な存在でしたが、自分たちがカルチャーをつくっているという感覚はあったのですか?
山口:私の感覚から言わせてもらうと、そういう感じではなかったですね。もともと「ナイキエアマックス95」が初めて雑誌内で紹介したときも、すごく扱いは小さかったんです。ページを作った人間もあそこまで爆発的なブームになるとは思っていなかったでしょう。逆にその流れに自分たちがついていけないというか、途中からはコントロールしきれていなかったです。
(後編に続く)
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