平成も終わったというのに、「昭和の妖怪」としばしば形容されてきた岸信介の評伝にどれほどの意味があるのか、と疑問に思いながら読み始めた。ところが、滅法面白いのである。上下巻、合わせて700ページ以上を一気に読んでしまった。本書『ミネルヴァとマルス 上 昭和の妖怪・岸信介』(株式会社KADOKAWA)は、安倍首相の母方の祖父にあたる岸信介の本格的な評伝である。
タイトルのミネルヴァとマルスは、それぞれ「文の神」と「武の神」を意味する。この上巻では、文官だった岸が東条英機ら軍人といかに対峙しながら、満州国の運営や戦時下での政治にかかわったかを扱っている。
著者の中路啓太さんは、東大大学院人文社会系研究科博士課程を単位取得退学した人だが、『火ノ児の剣』で第1回小説現代長編新人賞を受賞した時代小説家だ。研究者として培った批判的な眼と作家の筆力がうまくマッチして岸の生涯を生き生きと叙述している。
当然、安倍首相が意図している憲法改正を意識しない訳ではない。しかし、「昭和の妖怪」という決まり文句で片付けられてきた岸は、あまりにも敬遠されてきたのではないかと思う。
商工省の臨時産業合理局の事務官だった岸が、後輩の椎名悦三郎に満州国行きを打診する場面から始まる。椎名は戦後、内閣官房長官、通産大臣、外務大臣を歴任し、田中角栄内閣が金脈問題で退陣する際には、自民党の副総裁として、三木武夫を後継に指名し、その後の「三木おろし」でも中心的な役割を果たす、自民党の重鎮だったが、この時は人事の処遇に不満をもつ無名の役人にすぎなかった。
「僕自身も商工省を去って、満州へ行こうと言うんだ」とのことばに驚き、椎名は満州行きを引き受けた。昭和11年(1936年)岸も満州国へ行く。満州国は実質的に関東軍が仕切る傀儡国家だったが、岸は豊富なアヘン資金を背景に軍部にも食い込み、統制経済や日産コンツェルンの満州誘致を実現する。関東軍参謀長の東条英機との深いつながりが生まれた。
著者は「岸は『反軍』でありながら『親軍』であった。軍をうまく利用していたと言えるかもしれないが、軍に利用されてもいたのであった」と書いている。
その後、日本に戻り、東条内閣の下で商工大臣となった岸は、東条の戦争指導体制は国を亡ぼすと考え、東条からの辞職要求をはねつけ、東条内閣は終わる。そして終戦。上巻は戦犯として、岸も巣鴨プリズンに収監されるところで終わる。
下巻は自由党と民主党の対立、そして自由民主党の結成、岸内閣の成立、日米の新安保条約と岸内閣の退陣と戦後の保守政権の歴史をふりかえる。
通して読めば、決して「昭和の妖怪」でもなく、その時々で岸なりの合理的な判断で事に当たってきたことが分かる。昭和62年(1987年)90歳で亡くなるまで、隠然と影響力を保ったため「妖怪」と形容されたのだろう。
下巻には岸自身による回顧録のほか、いくつかの伝記が参考文献に挙げられている。その数の少なさに逆に驚いた。日米安保改定時の悪印象が、今日まで研究者や作家に筆を執らせなかったのだろう。岸が改憲主義者だったことは良く知られている。安倍首相が憲法改正に意欲をもつのも、そのトラウマのゆえんだろう。
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