太平洋戦争末期、米軍は占領した沖縄から本土爆撃を開始し、九州などで民間人への無差別爆撃を行った。日本では空襲(爆撃)というとサイパンやグアムなどマリアナ諸島から出撃したB29によるイメージが強いが、沖縄の基地からの本土爆撃も相当行われていたことはあまり知られていない。また爆撃機のほか戦闘機による爆撃が行われたが、その研究はほとんどされてこなかった。本書『沖縄からの本土爆撃』(吉川弘文館)は、その空白を米軍史料から明らかにしたものである。
著者の林博史さんは、関東学院大学教授で、『沖縄戦と民衆』『米軍基地の歴史』『暴力と差別としての米軍基地』など沖縄戦に詳しい歴史家。
日本本土への進攻作戦のための中継・出撃拠点として、沖縄を占領する「アイスバーグ作戦」を米国政府は立案、1945年4月1日に沖縄本島中部の西海岸に上陸した米軍は本島中央部を占領。すぐに日本軍の中飛行場、すなわち嘉手納飛行場で道路と滑走路の建設を始めた。5月13日には読谷飛行場から海兵隊の戦闘機16機が出撃、奄美群島の喜界島の飛行場を攻撃した。さらに5月17日、沖縄から最初の九州攻撃が実施された。伊江島飛行場から陸軍航空軍の2機の戦闘機が南九州の3つの飛行場や鹿児島県鹿屋の町の大通りに対してロケット弾と機銃掃射で攻撃した。
6月に爆撃機が配備されるまで中心となったのは戦闘機だった。戦闘機は数百キロから1トン程度の爆弾を積むことが出来るため、そうした場合、戦闘爆撃機として爆撃任務についた。数百キロでも日本軍の爆撃機並みの能力だったというから無視はできない。
なぜ5月中旬に沖縄からの九州奄美攻撃が始まったのか。林さんは日本軍機による攻撃で沖縄の米軍は少なくない被害を被ったため、その出撃基地となる九州の飛行場へマリアナのB29部隊が爆撃。その任務が5月11日に完了し、以後名古屋など各都市への戦略爆撃の任務に戻った。また海軍は第五艦隊から第三艦隊への引継ぎにあたっていた。このため、沖縄に配備されていた部隊がその任務にあたったと見ている。さらに6月に沖縄での戦闘が終わり、長い滑走路が出来ると爆撃機による攻撃が本格的に始まる。
本書ではこの後、九州奄美など沖縄本島外への攻撃が、詳述されている。使った飛行機、爆弾の数、双方の被害などが淡々と記される。林さんは7月27日の鹿児島駅を目標とした爆撃から市街地、民間地区を攻撃目標とした無差別爆撃の性格を一気に強めた、と指摘する。
この意図的な無差別爆撃の背景として、米軍情報参謀の以下の文書(「第五航空軍週刊情報レビュー 1945年7月15-21日」)を紹介している。「日本の全住民は適切な軍事目標である。(中略)日本に民間人はいない」。日本で6月22日に「国民義勇兵役法」が制定施行され、「15歳から60歳までの男と17歳から40歳までの女」を国民戦闘義勇兵に召集するものだった。この国民戦闘義勇兵が無差別爆撃の口実とされた。同じことはNHKスペシャル取材班による『本土空襲 全記録』(株式会社KADOKAWA)でも指摘されている。
林さんは「突然現れた戦闘機によって機銃掃射を受ける恐怖と不安は、B29などによる大規模な爆撃とは違ったものだったのではないだろうか。(中略)沖縄に建設された米航空基地はまさにテロの出撃基地であったと言うほかない」と書いている。グラマンなど空母の艦載機による攻撃は日本各地で行われたが、九州奄美を対象にまさに不沈空母となった沖縄から攻撃がされた訳だ。
すでにそれ以前から、日本も米国も無差別爆撃を行い、米国は第二次大戦後も沖縄を拠点にベトナムで無差別爆撃を繰り返した。いままた辺野古の基地建設が強行されようとしている。沖縄の基地から九州奄美へと爆撃した米軍は、ターゲットを世界各地に変えて存続しているのだ。
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