NHK大河ドラマ『麒麟が来る』で今、話題の明智光秀。「本能寺の変」で織田信長を討った戦国武将として記憶している人が多いだろう。
ただ、光秀が信長に出会うのが、彼が40歳前後の頃。歴史の表舞台に登場したのもこのときで、いつ、どこで生まれ、それまで何をしてきたのか、出自や経歴を示す良い資料が残っていないため、実は正確にはわかっていないのだという。
だから、テレビや書籍などで、光秀の出自などのエピソードが出てきたら、鵜呑みにせず、一旦疑ってみた方がいいかもしれない。
そんな明智光秀を巡るさまざまな誤解を解きながら、歴史のウソや誤解、曲解を説いていくのが『誤解だらけの明智光秀』 (本郷和人著、マガジンハウス刊)だ。大河ドラマ『平清盛』などの時代考証にも携わる東京大学史料編纂所教授の本郷和人氏が、明智光秀が生きた戦国時代の「リアル」を解説する。
40歳くらいに信長の家臣になったとされる光秀。年齢が定まっていないのも、実際にはいつ家臣になったのか、いくつかの説が存在するからだ。
信長は永禄11年9月に足利義昭の上洛を成功させると、翌年4月には、木下秀吉、丹羽長政、中川重政、明智光秀の4人の京都奉行を置いた。この時代の資料にも光秀はこの4人の京都奉行の署名の中に名を連ねている。
実質的な足利義昭の家臣と見られていた光秀がいつ正式に信長に仕官したのかは、よくわかっていない。比叡山の焼き討ちの成功で正式採用された。もっと前から信長の家臣だった。実は細川藤孝の家臣だった。といった説もあるが、実質的には信長の家臣として働いていた、と考えていいと本郷氏は述べている。
気になるのが木下秀吉、後の豊臣秀吉との関係だ。同じ時期に信長の家臣として過ごした光秀と秀吉は、仲が良かったのか。柴田勝家が上杉謙信との戦のとき、秀吉は信長に「勝家の応援に行ってこい」と命じられるも、勝家と大喧嘩をして帰ってくるほどの短気な性格な人物。
そんな秀吉が播磨で味方の裏切りにあい、苦戦しているときに助けに行ったのが光秀なのだ。二人が連携し、助け合いながら播磨と丹波の平定を成功させたというエピソードが残っている。短気な秀吉と連携して戦っていたということは、仲は悪くなかったと考えるのが自然だろう。
光秀は愛妻家で子どもたちのことも愛し、重臣や領民も大切にしたといわれている。一方で、信長を討った謀反人ともいわれている。明智光秀がいったいどんな人物だったのかが、本書を読むと浮かび上がってくるだろう。
また、『麒麟が来る』と合わせて本書を読めば、どちらもより楽しめるはずだ。
(T.N/新刊JP編集部)
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