日本は基本的に宗教に対して疎い国、もっといえば無宗教の国だといわれている。
その一方でイスラム過激派組織「IS」がシリア・ラッカを中心にゲリラ的に統治し、世界各地でテロを起こすなど、「宗教」を強く感じるニュースが溢れている。
言うまでもなく、宗教の根源は「神は存在するか」という問いだ。これに対して、「存在しない」という人もいれば、「存在する」と答える人もいる、それがこの世界であり、その「神」という存在が具体的に何を指しているかについても、実は同じであるとは限らない(というか、むしろ違うだろう)。
認知科学者の苫米地英人氏は『人はなぜ、宗教にハマるのか?』(フォレスト出版/刊)の中で、「神とは完全なるものであり、万物を創造し、過去も未来もすべてを知る存在」だと定義した上で、脳科学の見地からこんなことを述べる。いわく、「脳が神をつくっている」。
私たちの感覚は脳によって司られている。私たちが見ているものも、脳で処理されたものを「見ている」と認識している。つまり、もし実体としての「神」を見たというなら、それは「脳でつくられた情報」にすぎないということだ。
こう言うと、苫米地氏に「私は神を目撃したんだ!」と言ってくる人があらわれるというが、そもそも目撃情報は人間の認識がアテにならないことを示す例の宝庫であり、神を誤認してしまっている可能性が高いと述べる。
ではなぜ人は神を求めるのか、ひいては宗教を求めるのだろうか。
苫米地氏は人が信仰心を抱く理由のひとつとして「自分が不完全な情報システムである」ということを自覚しているからだと指摘する。未来を知ることもできないし、自分が正しいと思ってもその通りにいかないこともある。そして、「自分は弱い存在である」ということに気づいたとき、完全な情報を求めて信仰を始めるのだ。
理由は他にもある。「死への根源的な恐怖」はその一つだ。私たちはいずれ死ぬ。しかしいつ死ぬかは分からない。そして死んだ後、どうなるのかということも説明はできない。だからこそ、それに対する「説明」を欲しているのだ。私たちの日常の中で「死」に触れる機会はいくつもある。死は根源的な恐怖を呼び起こすものであり、その恐怖心をやわらげるために「何らかのストーリー」を求めるのだ。
こうして信仰心は「完全情報である神と接するための社会システム」として発展していったと苫米地氏は述べる。私たちは宗教と切っても切れない関係にある。その裏にはこうした背景があるからなのだろう。
(新刊JP編集部)
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