「開発援助」という言葉は、現代に生きる私たちの意識の中にすっかり定着している。世界中の困っている人を救うために募金をしたり、自ら進んで現地に行って活動を行ったり…。
そんな「開発援助」の先駆けとして国際的に評価されている基金を設立した人物が日本人であるということをご存知だろうか。
その基金の名は「昭憲皇太后基金」。「昭憲」とは明治天皇の皇后、昭憲皇太后のことで、同基金は1912年(明治45年)に昭憲皇太后が赤十字に対して平和救護事業を奨励するために寄付した10万円(現在の約3億5000万円相当)をもとに設立された。
赤十字社は1859年(安政6年)の設立だが、1910年代当時はまだ戦時救護を活動の中心としており、自然災害や疾病などの平時支援を主旨とした基金の誕生は画期的な出来事だった。
『明治日本のナイチンゲールたち』(今泉宜子/著、扶桑社/刊)は、そんな「昭憲皇太后基金」約100年の歴史を追いかけた一冊である。
■女性の近代化を率先して支援
昭憲皇太后は1850年(嘉永3年)、左大臣一条忠香の三女として誕生され、1869年2月7日(明治1年12月28日)に明治天皇の皇后として入内された。
近代化が急速に進んだ明治の時代において、昭憲皇太后は様々な事績を残している。その一つが女子教育の奨励で、華族女学校や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学)に御歌を下賜されたり、女性が海外で学ぶことを奨励された。
また宮廷の女子服制の洋装化を進められ、自ら率先して洋装を召された。こうしたエピソードからも、昭憲皇太后が時代の先を見据えられていたことがうかがえる。
■世界に救いの手を
昭憲皇太后は社会福祉活動にも熱心だった。
日本赤十字社が前身の博愛社を経て発足したのは1887年(明治20年)のことだが、その年のうちに明治天皇と昭憲皇太后は以後毎年5千円(現在の約1500万円相当)を日本赤十字社に下賜するとし(明治32年から44年までは毎年1万円)、さらに翌年には10万円を資金として下賜している。
赤十字への支援とは別に、昭憲皇太后は災害時の被災地支援にも尽力され、たとえば1891年(明治24年)の濃尾地震、1896年(明治29年)の明治三陸大津波の際、明治天皇とご一緒に救恤金を各県に対して下賜されている。この「救恤」は海外にも及んでおり、1902年(明治35年)の仏領マルティニーク島で発生したプレー火山の大噴火と、1908年(明治41年)のイタリアのシシリー島で発生したメッシーナ地震の際にも救援金を送っている。
■昭憲皇太后基金の「いま」
基金は平成24年に設立100年を迎え、平成25年時点で計158の国と地域、600以上のプロジェクトを支援している。
本書は筆者がベラルーシ、リトアニア、バヌアツに飛び、基金の役立てられ方を見聞するところから始まる。ルポでは人身売買から子供を救うための教育支援、文盲の青年たちが救急法を会得するための活動支援など、過酷な世界の現実が描かれる。
続いての第二章では昭憲皇太后基金ができるまでの経緯を明治日本の高い志とあわせて紹介し、第三章では基金が戦争だけではなく難民支援や感染症との闘いにどのような支援を行ってきたのかを振り返る。巻末には1921年の第一回配分先から2013年の第92回配分先の国名と金額、活動内容が付録としてつく。
昭憲皇太后基金創設100年を目前にした平成23年3月11日、東日本大震災が発生した。世界各国から様々な支援が届けられたが、昭憲皇太后こそは世界の国々が手を取り合って助け合うという姿勢の礎を築いた方であると言っても過言ではない。
現在、明治天皇と昭憲皇太后の御霊を祀る明治神宮の社殿の前には募金箱が置かれており、昭憲皇太后の意志は現代まで受け継がれている。本書は昭憲皇太后崩御から100年の年にあたる本年に刊行された、日本人が知らない明治日本発の偉業を知る好著といえよう。
(新刊JP編集部)
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