皆さんは「奇跡のリンゴ」を知っていますか?無農薬、無肥料という、いわゆる自然栽培によって作られたリンゴなのですが、これはとある日本の農家が世界で初めて成功させるまでは、リンゴの自然栽培は不可能とされてきました。
そんな世界初の偉業を成し遂げたのが木村秋則さんです。しかし、この偉業にたどり着くまでには、様々な苦難がありました。リンゴと向き合うあまり、家族がいるのにも関わらず無収入が続いたり、失敗が続き、自殺を考えて山に入っていったりしたこともありました。
自然と向き合ってきた木村さんは、新刊『リンゴの心』(佼成出版社/刊)で天台宗の大僧正である荒了寛氏と、自然と人間の共生をテーマに、対談を行っています。その中で木村さんはどんなことを感じたのでしょうか? インタビュー前編をお伝えします。
(新刊JP編集部)
■「"奇跡"のリンゴじゃなくて、"必然"のリンゴだったんだ」
―本書では僧侶である荒了寛さんとの対談に臨まれていますが、対談時の現場の雰囲気はいかがでしたでしょうか。農業と仏教で、通じ合うものはありましたか?
「目の覚めるような思いをさせていただきました。私には仏教の知識はあまりないのですが、自然栽培農法を模索するなかで学んだことを、和尚さんは仏教のいろんな視点からとらえ直してくださり、とても有意義で楽しい時間でした。社会情勢や教育の問題まで、いろんな話に花が咲きました」
―どのような想いで対談に臨まれたのでしょうか。
「地球上のすべてのものに命や心があると、リンゴの無農薬栽培に取り組むなかで私は感じるようになっていました。そうとしか思えない、という心境になっていったのです。ですから、私は自分なりの確信をもって、そのことを農業関係の研修や講演会などで多くの方にお伝えしてきました。しかし一方で、自分以外の別の視点からも、『あなたが考えたことややってきたことに、間違いはないですよ』と教えてもらいたい、という思いも抱いていました。ですから、今回の対談の企画が持ち上がってから、私としては神妙に和尚さんの審判を待つような緊張感もありました」
―対談を通して、新たに気づいたこと、感銘を受けた言葉などはありましたか?
「印象に残っているのは『慈悲』という言葉の意味です。和尚さんは、仏教での『慈悲』という言葉の意味は『一体感』だとおっしゃったんです。それを聞いて感動しました。私が自然栽培農法で見出したのが、まさにこの『一体感』の世界だからです。
自然界では本来、リンゴの木も雑草も虫もすべて、リンゴが実をつけるうえで欠かせない要素として強く結びついています。人間たちの無用な作為など必要ないサイクルが、自然界にはあります。私は土に這いつくばり、根元からリンゴの木を見上げながら、その自然のありようを見てきました。そのことが、2千年を越える歴史をもつ仏教の教えの中で脈々と語り継がれてきていた。それを和尚さんに教わって、『やはりそうだったか!』と心を揺さぶられる思いがしましたね。
さらに、仏教で教える『縁』というものの不思議さも興味深いものでした。私をこの農法へと導いた数々の不思議な出会いは、まさにこの『縁』でした。無農薬栽培という無謀なことを私が考えたのは、木村家に婿入りするまで農業の経験がなかったからですし、その挑戦を支え続けてくれた義父は、娘の体質が農薬に弱いことを誰よりも心配していました。そして、何年挑戦してもリンゴの花一つ咲かないことに絶望し、死を決意して分け入った山の中で、一本の木の根元に堆積したから大きなヒントを得るという体験もしました。多くの不思議な縁によって、私はまさにこの自然栽培農法へと導かれた、としかいいようがないんです。だから、人はよく『奇跡のリンゴ』と言ってくれますが、『奇跡』のリンゴじゃなくて『必然』だったんです。和尚さんは、すべてのことは『原因』と『縁』が結びついて、『結果』すると話してくださいましたが、本当にそのとおりだと腑に落ちました」
■「ずいぶん遠くまで来たもんだ。多くの人と出会うために」
―実は以前、木村さんの前著を読ませていただいたことがあったのですが、本書でも木村さんの自然との向き合い方、接し方が一貫していらっしゃいました。その一貫した軸を持ち続ける方法や気持ちの持ち方について教えていただけますか?
「いろんなことをよく観察する、ということでしょうか。当たり前のことが当たり前であるために、何がどう関わって成り立つのか、そういう視点で物事を見つめてみるんです。
リンゴ畑で土とまみれ、風に吹かれながら、私はよく自然を観察します。すると、いろんな発見をします。たとえば、害虫が大量に孵化してしばらくたつと、それを食べる虫が孵化する。互いに食ったり食われたりの関係でありながら、それぞれ全滅もしない。長いスパンで見ると、バランス良く落ち着くようになっているんです。でも、私たちは一日、一カ月、一年という、自然の大きな流れに比べるとずっと小さなサイクルで物事をとらえがちです。目先の欲にかられて、ゆったりとした目線をもてないのです。人間が小手先で全体のバランスを崩すようなことをすると、そこに組み込まれている自分の存在も同時に危うくなると気づけないんですね。
人間は、どんなに踏ん張っても、自分の体にはリンゴの実一つも米粒一つもならせられません。いくら力んだところでコップ一杯の水も出せない。土を掘っても、そこに水脈がなければ水は湧いてはこないんですから。結局は、置かれた状況で自分がどのように周囲からのはたらきかけを受け、自分もまたどうはたらきかけていくかということを見つめる――コップ一杯の水を飲む時にも、その状況をあえて俯瞰して物事を観察する習慣をつけると、狭くなりがちな視野を広く保てるのかもしれませんね」
―私の実家が農家で、なおかつ山の中にあることもあり、人間の自然との接し方について、少し人間が傲慢になっているのではないか、人間が自然を管理してやっているという気持ちが強いのではないかと感じます。木村さんはそう思われることはありますか? もしそうならば、どんな時ですか?
「まさに、そう思います。代表的なものが、現在の農業のあり方でしょう。
リンゴの慣行栽培では、通常、農薬を年に十数回も散布します。その農薬は、直接肌にふれると皮がベロリとむけてしまうほど強い薬品です。私はある時、人の皮膚と同じようなことが畑の土の中でも起こっているんじゃないかと思いました。だって、木の根っこは、農薬を散布している時の私たちのように衣類などで覆われているわけじゃなくて、直接薬が触れるわけですから。
そこで、紆余曲折の末に、畑の土を山の土のような自然の状態に戻しました。雑草も生え放題です。すると、リンゴの木から落ちた葉が草に絡まるので風で飛ばず、自然の堆肥となって木の養分となり、実を太らせるわけです。山の木々は、だれも雑草を取ってくれませんよね。けれど木々には毎年いろんな実がなり、山の生き物たちを生かしている。その生き物の糞が、木々の養分になる。自然では、すべてのものがつながり合って互いを生かし合うという、過不足なくバランスのとれたサイクルが完成しているじゃないですか。また、自然栽培農法に慣れてきたリンゴの木は、自然治癒力が高まるんです。葉に病気の菌がついても、そこにだけ養分が行かないようにして、病変部分だけが丸く抜け落ちてそれ以上広がらないようになるんです。
そうしたことを思うと、人間が『収穫量を上げよう』という欲から農薬や除草剤を散布することは、実はそういうサイクルを壊しているように見えてきます。人間はもっと自然に対して謙虚な"わきまえ"ある姿勢でそのサイクルの一部として参加する、というくらいの気持ちでいるのがいいと思います」
(後編へ)
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