2013年の今年、開園30周年を迎える東京ディズニーランドでは、“ザ・ハピネス・イヤー”と題して様々なイベントや催しが行われます。30年といえば一つの世代が入れ替わる節目の年。そんな30年の中で、東京ディズニーランドはどんなことが変わり、どんなことが変わらないままできたのでしょうか。
初代ナイトカストーディアル・トレーナー兼エリアスーパーバイザーとして1983年の開園を迎え、その後、オリエンタルランド全スタッフの指導、育成を担当した鎌田洋さんは、ベストセラーシリーズの最新刊である『ディズニー ありがとうの神様が教えてくれたこと』(ソフトバンク クリエイティブ/刊)で、ディズニーのサービスの本質を物語形式で伝えます。
今回は本書の刊行を記念し、鎌田さんにインタビューを決行。前編では東京ディズニーランドが開園した1983年当時の話をお話していただきました。当時、ナイトカストーディアルだった鎌田さんが見た光景とは?
(新刊JP編集部)
■開園初年度は“ゴミ、自然との戦い”だった
―今年は東京ディズニーランドが開園30周年という節目の年に当たります。鎌田さんはスタッフとしてオープンを迎えましたが、当時のことを覚えていますか?
「覚えていますね。まず、オープンした初日は小雨が降っていて、天気があまり良くなかったんですよ。だから、いっぱいお客さん来ると思って期待していたんだけど、期待ほどあまり来なくて(笑)、拍子抜けしましたね。
でも、よく考えたら当時はまだディズニーがそこまで定着していなかったんですよね。どんなに楽しく素晴らしいものか、みんな知らなかったんだと思います。だから、落ち着いた入りではあったんだけど、今思えばセキュリティ面から見れば、あれくらいで良かったのかも知れません」
―開園日前夜は、鎌田さんはどう過ごされていたのですか?
「ナイトカストーディアルのスーパービジョンですよ。あとは、テープカットの準備なんかもしていました。ワールドバザールの真ん中でやったんだよね。本当は別のところでやる予定だったんですけど、天気が悪いという予報が出ていましたから。当時の様子はビデオに残されていますよ」
―「明日、ついにここが開くんだ!」というワクワク感はありましたか?
「ありましたね。ワクワクしていました。だからでしょうね、初日の『あれ?』という感覚は。ただ、今と違って当時はゲストの入りが土日集中型だったんですよ。それで平日はガラガラなことが多かった(苦笑)」
―お休みの日にご家族で子どもを連れてくるような。
「そうですね。今では有給休暇を取ってディズニーランドに行くということも珍しくはないと思いますけど、当時はそもそも有給を取れる雰囲気が社会全体になかったですし、ましてや『会社を休んでディズニーランド!?』みたいなところもありましたから。だから、その分週末に混むんですよ。開園したての頃、入場制限をしたら高速道路の環状線を詰まらせてしまったことがあります。高速の出口付近でディズニーランドに向かう車で詰まってしまったんです」
―それはすごいですね…。交通という意味では1988年の舞浜駅の開業はかなり印象的じゃないですか?
「舞浜駅が出来て、アクセスが良くなりましたからね。すごく嬉しかったです。舞浜駅がなかった頃は、東西線の浦安駅からバスでしたが、バスが遅れて歩いていらっしゃるゲストもいました」
―そうした開園当時からディズニーランドに遊びに来ている子どもたちが大人になっていく中で、平日にも来るようになったんでしょうね。特に大学生は平日にも来られますし。
「そうですよね。特に2月や3月は学生の割引をしていますから、賑わっていますよね」
―渋滞のほかに、印象に残っているエピソードを教えていただけますか?
「私はカストーディアルだったので、カストーディアルの話になるのですが、ゴミの量は今以上に多かったと思います。ゲストがどんどんゴミを捨てていくので。でも、今は捨てなくなりましたね。これは大きな違いですよ。当時は戦いでしたから。スイーピング(掃き掃除)の技術は高かったし、それすら芸術的でした。掃除で拍手をもらったりね(笑)。今はゲストが汚さなくなったから、掃除の部分は昔のキャストの方が上かなと思います。ただ、その分、サービスに優れたキャストが多くなりました。これも素晴らしいことだと思います」
―ゲストが自発的にゴミを捨てなくなったことはすごいですよね。
「私も今はゲストとしてよく行きますが、ゴミを捨てることが恥ずかしいという感覚がなんとなくありますね。
また、他に印象的だったことは、初年度の冬です。1983年から1984年にかけての。その年の1月22日に、22センチの大雪が降ったんです。それでもうノックアウトですよ(笑)。昼から降り始めて、閉園を余議なくされました。さらに雪は深夜も降り続いて、私は夜、ナイトカストーディアルの仕事をしていたのですが、一面銀世界でしたね。キャッスルから見ると、ワールドバザールの方は土地が低くなっているのですが、見渡すと真っ白なんですよ。もう手の施しようがないし、いくら雪を片づけてもキリがなかったです。
またその年は大雪が4、5回降って、その度に昼のスタッフまで動員して皆で雪かきをしました。現場だけじゃなく、本社の人たちも来てね。壮絶な戦いでした。だから、初年度はゴミとの戦いと、あとは自然との戦いでしたね。しかもアメリカのパークは大雪に対するノウハウを一切持っていないから、我々自身がノウハウを作っていかないといけなかったんです。『ディズニーそうじの神様が教えてくれたこと』にも書いた、強風を起こして氷を飛ばすという方法も、開園からしばらくして思いついたアイデアでしたね」
―そう考えると、いろいろなことが良い形で変わってきましたよね。また、この30年間で変化してないこともあると思いますが、鎌田さんから見てそれは何だと思いますか?
「挙げるとするならば、常に新しいものを取り入れる姿勢だと思います。ゲストの皆さんは常に新しさを求めていると思いますし、ディズニー側も新しさを提供するために、計画的に施設を新設していますよね。また、既存のアトラクションも少しずつ変わっています。だから、いつ行っても新しさがあります」
―私の年齢はちょうど東京ディズニーランドと同い年で、30歳に近づいて、子どもが生まれて、子どもを連れてディズニーランドに遊びに行ったりしている知り合いもいます。今回、鎌田さんが上梓された『ディズニー ありがとうの神様が教えてくれたこと』を読んで、東京ディズニーランドの楽しさは、世代を超えて引き継がれていくものだなと再確認しました。
「それがディズニーランドの大きな特徴ですよ。ファンを再生産する仕組みがあって、子どもの頃の楽しい思い出を持つと、学生になると友達や恋人と、大人になって子どもができるとその子どもと、さらに最近は孫と来るゲストも多いですね。開園当時30歳くらいの人って、もう60歳でしょ? 人間って自分が感動したり、良い思い出になったものは、愛する人と分かち合いたいという気持ちになるんですよ」
―本書は「ありがとう」がテーマになっていますが、この言葉をテーマにした理由について教えていただけますか?
「私が講演をした際に、必ず締めの言葉として『ありがとうの数だけ幸せになれる』と言うんです。そこからテーマを考えました。
私の専門分野はCS(顧客満足)ですが、顧客満足を高めるということを、皆さん難しく考えているようなんですね。でも結局、お客さんは良い気分になれば『ありがとう』と言ってくれます。それがファンになった証なんです。だから、『ありがとう』という言葉を何回聴けるかということにチャレンジすることが大事なんですね。それは純粋に家族や同僚から言われる『ありがとう』と同じで、どんな人でも『ありがとう』って言われると嬉しくないですか? それと同じなんです。だから必ず講演の最後は『ありがとう』で締めるようにしていて、今回はシリーズ3冊目なので、一区切りという意味でちょうど良いかなと思いました」
(後編へ続く)
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