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ピアニストが左手だけになって気付いた「音楽」の豊かさとは

 左手だけでピアノを弾き、世界中の観客から拍手喝さいを受ける日本人ピアニストがいるのをご存知でしょうか。
 舘野泉さんです。
 舘野さんは来年80歳を迎えるベテランピアニスト。2002年、デビュー40周年記念コンサートツアーの終盤のコンサートの最中、脳溢血となって右半身不随となります。しかし、懸命のリハビリによって復帰。今もなお活躍し、人々の心を惹きつけるピアノを奏でています。
 『命の響』(集英社/刊)はそんな舘野さんによる自伝。半生や病気のこと、そして音楽との向き合い方などがつづられており、その一つ一つの言葉に感銘を受けてしまいます。

 今回、新刊JPはそんな舘野さんにインタビューを敢行。お話をうかがいました。
(新刊JP編集部)

 ◇     ◇     ◇

――とても感銘を受ける言葉がたくさん詰まっている本で、最後まで止まらずに読みました。78歳の今、本書を執筆されたのはどうしてですか?

舘野さん(以下敬称略):藝大を出てデビュー・リサイタルを開いたのが、1960年。今年は演奏活動55年目です。右手の自由を失い、「左手のピアニスト」として再起してからも、すでに11年の歳月が流れました。来年の秋には80歳になります。
本を出さないかと声を掛けていただいたのは、2年ほど前。集英社の『kotoba』という雑誌の取材を受けたのがきっかけでした。すでに何冊かエッセイ集を出しているし、大きなコンサートツアーの最中だったので、ちょっと迷ったんですが、編集の方がくどき上手でね。「舘野さんのお話を聞いていると、すごく勇気づけられます」なんておっしゃる。僕の体験がお役に立つなら……と、失敗談も含めて飾らず隠さず、いろんなエピソードを盛り込むことにしました

――1960年代にヘルシンキに住み始めるなど、舘野さんの選択はいつでもユニークであり、挑戦的に感じられます。こうした舘野さんの行動基準はどのようなものか教えていただけますか?

舘野:本にも書きましたが、僕の行動の基準は、やりたいか、やりたくないか。「やりたい」と思ったら、周囲のみんなに反対されてもやってしまいます。というより、「人からどう思われるだろう」とか、「違う道を選んだほうが後々のためだ」とか、「失敗したらどうしよう」なんてことを考える間もなく、もうそっちに向かって駆け出しちゃっているんですよ。やりたいという思いだけで心がいっぱいになって、ほかのことは目に入らなくなる(笑)。それは、子ども時代からずっと変わりません。
後先を考えずに行動するため、いろいろ失敗もしてきました。でも、できるかできないかすら考えずに走り出し、夢中になってやり続けていると、どんどん協力しくれる人が現れる。「絶対に不可能。やめたほうがいい」と言われていたことだって、いつの間にかできちゃったりするんですね。

――若い頃はどのようなピアニストを志していたのでしょうか。

舘野:う~ん、こういうピアニストを目指したいという理想みたいなものはなかったですね。むしろ、決まった型にはまるのが嫌で、自由自在であり続けたいと思っていたというか。
僕は、そのときどきの「これをやりたい」という気持ちに突き動かされるようにして生きてきました。フィンランドに渡ったのも、北欧の文学と自然に魅せられ、住んでみたいと思ったから。「クラシックを学ぶなら中央ヨーロッパだろう。なぜそんな北の果てに!?」と、誰もがあきれたけれど、音楽の勉強に行ったわけじゃないんです。
ヘルシンキを拠点に活動を始めると、評論家たちから「北欧音楽のスペシャリスト」なんて呼ばれるようになりましたが、これも違います。若い頃から、洋の東西や時代を問わず、ありとありとあらゆる国の音楽を弾いてきました。好きなのはクラシックに限りません。フラメンコ、ファド、サンバ、ジャズ、シャンソン、タンゴも大好きです。

――コンサート中に脳溢血で倒れ、65歳で右半身が不随となったとき、ほとんど焦りを感じなかったと本書で書かれています。そのときの心境についてもう少し詳しく教えていただけますか?

舘野:医師によれば、ほんの少し出血箇所がずれていたら命はなかったそうです。意識が回復したら、右半身は麻痺し、舌がもつれてうまくしゃべれない。記憶力や思考力もかなりダメージを受けていました。
でも、2カ月間の入院中は、周囲の人が驚くほど明るかったですね。一人で立ち上がることもできなかったのが、車椅子を卒業し、歩行補助器を使って動けるようになり、やがてステッキを支えに歩けるようになっていく……。そんな具合に、リハビリの成果が少しずつとはいえ確実に現れるのがうれしかったし、ほかの患者さんや病院のスタッフを観察するのも面白かったんです。
もちろん、つらくなかったと言ったら嘘になります。倒れてから9カ月後、2002年1月の段階で、医師から「もうこれ以上よくならないのでリハビリは終了」と見放されてしまったしね。でも、一度として絶望にのみ込まれることはありませんでした。自分一人でリハビリも続けていました。たぶん心の深いところに、「いつか必ずステージに復帰できる。音楽のもとに戻れる」という確信みたいなものがあったんだと思います。

――左手一本になってからご自身の音楽観が変わったという記述が見られました。人は得てして、「新しいことへの挑戦」よりも「失うことの恐怖」や「失ってしまったものへの執着」が勝ってしまうものですが、舘野さんの文章を読んで、一歩を踏み出し、妥協せずに進んでいく大切さに気づきました。
舘野さんは右半身不随だということを聞いてから、失うことの恐怖などをどのように受け止め、消化していったのですか?

舘野:右手の自由を失ってから長いこと、僕は、ピアノというのは両手で弾くものだという思い込みにとらわれていました。でも、第1次世界大戦で右手を失ったピアニストのために書かれたある曲との出会いをきっかけに、左手一本でも十分にして十全な表現ができることに気づかされます。それからは、左手の世界を究めていくことが面白くてしょうがないんですよ。左手だけで不自由だとも、また両手で弾けるようになりたいとも、まったく思いません。ピアノが弾けるという、ただそれだけで幸せで、生きる喜びが溢れてくる……。
そう思えるようになったのは、音楽に対する飢えのすさまじさをいやというほど体験したからでしょうね。脳溢血で倒れてから左手の音楽の豊かさに気づくまで、1年3カ月の間、ひもじくてひもじくてたまりませんでした。あのとき味わった、魂を苛まれるような飢餓感が、今も僕を突き動かし、新しいことに挑戦する意欲をかき立てている気がします。
それに、よく「膨大なレパートリーを一瞬にして失ってしまい、さぞや悔しいでしょうね」と聞かれるけれど、弾けなくなった曲たちも消えてしまったわけじゃない。僕の中に蓄積され、左手の曲を弾くための土台となり、今の僕を支えてくれているんですよ。

(後編では倒れてから見つけた「音楽の本質」について聞いています!)

●コンサート情報
11月10日には「79歳バースデー・コンサート」をヤマハホールで開催予定。共演は草笛光子さん。
問い合わせは ジャパン・アーツぴあ:03-5774-3040

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