私たちが「ありえない」と思っていたことに出くわしてしまったとき、どうしてそれが起きてしまったのか「仮説」を立てる。この「仮説」がセンセーショナルであると同時に、納得のいけるものであれば、人々の理解を得ることができるだろう。
1964年、アメリカ・ニューヨークの住宅街で起きた「キティ・ジェノヴィーズ事件」は悲惨な結末を迎えたことで有名な殺人事件だ。キティ・ジェノヴィーズという女性は、35分にわたり「助けて!」と悲鳴をあげ、逃げまわっていたが、最終的に犯人に惨殺された。
この事件で最もメディアの目をひいたのが、殺されるまでの35分もの間、住民たちは誰一人として警察に通報しなかったという点だった。当局発表によれば、その事件の目撃者は38人に上ったという。
ニューヨークタイムズ紙の記者たちが目撃者に対して「どうして通報しなかったのか」と質問すると「わかりません」「通報するのが怖かった」などといった答えが返ってきた。そして、紙面上で「目撃者たちは無関心だったから誰も通報しなかった」という可能性が指摘された。
しかし、「無関心だから」通報しなかったという仮説は、この事件に付随した、ある有名な社会心理学の実験によってくつがえされる。この事件に興味を持ったラタネ氏とダーリー氏という2人の心理学者によって、「傍観者効果」という集団心理が生み出されることが明かされたのだ。
「傍観者効果」とは、自分以外の傍観者がいる状況において、人は率先して行動しなくなるというもので、ほぼ定説と化している。
このように、仮説は実験によって裏付けされるのだが、実はその実験が別の場所と時間で行われると再現できないというケースもあるのも事実であり、さらに視点を変えることによって観察者によって見解が分かれてしまうということもある。
今、マネジメントを学問的に研究するフィールドでは、こうした「実験室実験」に対する見直しと、「ありえない」事象に対する反復実験が重要視されつつある。反復実験とは、他の人が行った実験を後から同様に試みるもので、マネジメントの学会では、反復実験の発想に基づく研究が評価され、最優秀論文を受賞することもあるという。
ハーバード大学のギルバート氏は「組織の慣性」についての研究で、反復実験の発想を取り入れる。
例えば、「ある脅威(例えば業績の悪化など)が組織に襲いかかろうとしているとき、組織はどのように動くのか」について、2つの相反する見解が導き出されている。
・脅威を感じ取ると、組織の慣性は弱まって変革が促される 「慣性緩和説」
・脅威を感じ取ると、組織の慣性は強まって変革が妨げられる 「慣性強化説」
前者は、脅威があることで戦略や組織の見直しが促されるという考えで、後者は脅威によって損失を怖れ新しい機会に目が向かわなくなるというものだ。
矛盾する見解が出てくることに対し、ギルバート氏は「何についての慣性か」をしっかり整理しないために相違が起こると指摘する。視点を変えれば、ある側面では緩和している部分が、別の側面では強化されていることもあるのだ。
ギルバート氏は、同じような歴史を持ち、同じくらいの規模の新聞社8社をピックアップし、デジタル化・インターネット化という脅威に対してどのように組織が変革したかを論文にまとめている。
『ブラックスワンの経営学 通説をくつがえした世界最優秀ケーススタディ』(井上達彦/著、日経BP社/刊)は、マネジメントの学会“アカデミー・オブ・マネジメント”で、その年最も優れた論文「ベスト・アーティクル・アワード」を受賞した経営学の論文を参考に、渦中にいる当事者たちやそれを分析する専門家にとって「ありえない」と思われる出来事や存在=ブラックスワンの正体を紹介する一冊だ。
この「キティ・ジェノヴィーズ事件」の事例と、反復実験の重要性脅威に対する組織の慣性の変革については本書の第3章で説明がなされている。
実は私たちの周囲では「ありえないもの」が頻繁に起こっている。その「ありえないもの」はどうして起こり、どのように分析され、どのように定説がくつがえされていくのか。その過程を見ていくだけでも、経営学のスリリングな面白さを味わうことができるはずだ。
(新刊JP編集部)
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