新橋といえば古くから多くのサラリーマンで賑わう「サラリーマンの街」。
その新橋の路上で、40年以上にわたり靴磨きを続けている名物女性がいる。
中村幸子さん81歳がその人だ。
戦後まもなく上京してからの彼女の壮絶な人生は、歌手・あさみちゆきさんのヒット曲「新橋二丁目七番地」のモデルにもなっている。
中村さんが靴磨きを始めたのは40歳の時。それまで病弱な夫と5人の子供のために行商やリヤカーでの果物売りをして生計をたてていたが、長年の肉体労働によって腰が曲がり、彼女の体は限界だった。それでも、一家には自分しか働き手はいない。リヤカー引きの果物売りから決別することを決意し、自分の靴さえろくに磨いたことのなかった中村さんは、この未体験の仕事に飛び込んだ。
しかし、全くの初心者である中村さんにすぐお客がつくほど、靴磨きは甘い世界ではなかった。新人への露骨ないじめによって日中の仕事から締め出されたり、お金をせびりにきたホームレスに暴力を受けたこともあった。ようやく地べたに座ることにも慣れ、毎日新橋へ通う日々が続いていたある日、直腸がんを患い、入院して手術を受けることになったときも、新橋の常連客のことが頭から離れず、自分の意志で退院したこともあった。
辛い環境や苦しい生活、酷暑や極寒に耐え、中村さんは靴磨きを続けてきた。もちろん、家族を養わなければならないという義務感は大きかったはずだが、それだけではこの過酷な仕事を40年も続けてこられなかっただろう。頼りにしてくれる常連客や同僚の靴磨きからの励まし、高齢になっても仕事があるという喜びが、彼女を今まで後押ししてきたのだ。
「おばさんがいないと困るよ」と言ってくれる常連客がいるからこそ、体がきつくても新橋に通い続けるのだと中村さんは言う。
彼女の人生は東京新聞の記者である佐藤史朗さんによって『「新橋二丁目七番地」地べたに座って40年、靴磨きばあちゃんの教え』(ソフトバンク クリエイティブ/刊)として出版された。本書には中村さんの半生と、靴磨きとしての40年から導き出された教えが綴られている。
「明日はきっといいことがある。だから大丈夫」
戦後の混乱期から今に至るまで、貧しいながらも必死で働き、生き抜いてきた彼女の言葉は、すべての世代の人にとって、励ましとなり、エールとなるはずだ。
(新刊JP編集部)
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