世の中にある数多の仕事の中には、多くの人に注目され、認知されるものもあれば、「縁の下の力持ち」的な仕事もある。後者の仕事はその実態が知られにくい。
「辞書の編集者」という仕事は、どんなことをするのか一般的に知られていない仕事の一つではないだろうか。その内情は控えめに言っても「地味」で「地道」だ。
『文庫 辞書編集、三十七年』(神永暁著、草思社刊)はそんな辞書編集の仕事を長年続けてきた著者による、逸話に富んだエッセイである。
辞書編集は、何十万にも及ぶ語彙を採集したり、それぞれの語彙の用例を探したり、できあがったゲラを確認したりと、毎日が単調な作業に塗りつぶされている。およそ外交的な人には向かない仕事である。同じ編集者でも書籍編集者のように「読み物」に触れられるわけでもない。
その単調さは「刑罰」にも似ている。著者の神永暁さんがかつて小学館の「日本国語大辞典」の第二版の編集をしていた頃、この事典を愛用していた作家の井上ひさしさん(故人)が編集部を訪れたことがあり、こんなことを話したという。
「皆さんは刑期を務めていらっしゃるのです」
曰く、19世紀のイギリスには辞書編集という刑罰があり、それは数ある刑罰の中でもかなり重いものだった。真偽のほどは定かではないが、辞書編集という仕事が人によっては苦役になりえるということを端的に示すエピソードである。
実際に辞書編集は、刑罰とはいかずとも「塀の中」とは縁が深いのかもしれない。
神永さんが所属していた辞典編集部に、「ある地方都市」から漢和辞典に収められた漢字の字体について「極めて重要な指摘」を繰り返ししてくる人がいた。これほど字体に精通した人物とはどんな人なのか。その指摘は手紙で送られてきたため、受け取った編集者がお礼かたがた一度お目にかかりたいと返事を出すと、「会う必要はない」と断ってきた。
のちにその編集者が出張の際に住所を頼りにその人に会いにいくと、そこは高い塀に囲われた刑務所だったという。
なぜその受刑者が漢字の字体に精通していたのかはわからない。ただ、当時の刑務所では受刑者に職業訓練として活版印刷の技術を学ばせていた。現在の印刷では電子組版が使われ、活版印刷はほとんど残っていないが、当時は原稿に出てくるすべての活字を揃える「文選」や、その活字を指定された体裁で配列する「植字」など、熟練と膨大な知識を要する技術がまだ必要とされていた。
その受刑者がこの職業訓練を通じて漢字の知識を身につけたのか、もともと漢字に詳しかったのかは定かではないが、神永さんによるとかつて辞書の印刷を発注していた印刷会社には、「どうやら植字の技術を塀の中で身に付けたのではないかと思われる方」がいたそうである。この人物についても、辞書編集部を感嘆させるほどの知識を職業訓練で身につけた可能性は否定できないだろう。
◇
なかなか外部からは想像がつかない辞書編集という仕事。本書では、この仕事をめぐる逸話の数々がユーモアを交えて解き明かされていく。
方言や隠語はどのように扱われているのか、なぜ辞書編集者は言葉の誤用例まで集めるのか、インターネットが普及した今、紙の辞書はどのように扱われているのか。そもそもあんなに分厚い辞書をどのように製本しているのか。
よく考えると、辞書は謎ばかり。そんな謎が紐解かれる、知的好奇心をくすぐる一冊である。
(新刊JP編集部)
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