東京大学大学院理学系研究科で地球惑星科学を専攻、博士課程修了の経歴を持ち、『ルカの方舟』や『コンタミ 科学汚染』『博物館のファントム』など、科学や理系的世界を題材にしたミステリの書き手として知られる伊与原新さん。
その最新作となる『月まで三キロ』(新潮社刊)は、これまでのイメージを一新するような人間ドラマが描かれた短編集となっている。
何もかもを失い、死に場所を探してタクシーに乗った男、ある事件から幸せを諦めかけているアラフォー女性、優秀な兄や個性的な伯父と対照的にフツーで何者にもなれずに悩むフリーター...。そんな主人公たちの心に空いた隙間を埋めていくものとは?
書店を中心に話題を呼んでいるこの短編集について、伊与原さんにお話をうかがった。
(取材・文:金井元貴)
伊与原:そうですね。全作書き下ろしです。着想は、デビュー以来お世話になっている編集者が神奈川県真鶴町にある「遠藤貝類博物館」という博物館に行ったという話からです。
伊与原:はい。その博物館がすごく良かったとおっしゃっていて、そもそも貝には全く興味がなかったのだけど、いざ入ってみたら膨大な貝のコレクションに圧倒されたと。非常に良かったそうなんです。
貝ってそんな興味を持たれるようなものではないですし、どこが面白いのかなかなか理解できないものだと思うんですね。でも、そうやって示されると意外に関心がわくのかもしれない。その感覚を何とか小説にできないかと話していたんです。
それと並行して、ある程度の年齢になると「人生こんなはずじゃなかったのに」と思うところが出てくるものですが、その心の隙間みたいな場所に未知の世界が飛び込んで来た時に、世界の見方が少しだけ変わるんじゃないかと考えていて、その変わる瞬間を小説にしたいなと思っていました。
伊与原:そうですね。着想はまさにそこというか。その遠藤貝類博物館には在野の貝類研究者である遠藤晴雄氏のコレクションが収められているのですが、アンモナイトも在野の研究者による有名なコレクションがありますし、ちょっとロマンチックなイメージがあるじゃないですか(笑)。小説の題材にできそうだなと思って、これで書けそうですねという話からスタートしました。
伊与原:最初に書いたのはそちらではなく、表題になっている「月まで三キロ」ですね。
伊与原:「月まで三キロ」って本当にあるんですよね。まあ、メディアでも取り上げられていたから知っている方も多いと思いますが、いつか題材として使いたいと思っていました。
伊与原:そうですね。好きなものをちゃんと大事にできて、それが揺るがない人。そういう人は強いですよね。
「月から三キロ」はテーマとしては重い話ですが、タクシーの運転手も、どんなに絶望したとしても自分が好きだった世界を完全に忘れずに生きているのは確かで、そのこと自体が絶望からかすかに救ってくれることになるのかもしれません。
伊与原:そうです。この短編集で描きたかったのは、前向きになって人生が好転するという話ではなく、心にほんのわずかな変化が起きた人たちの物語なんですよね。それが読者にとっても励みになるんじゃないかと。まるっきり好転したら逆に嘘くささを感じてしまうじゃないですか。
伊与原:そう簡単に変わらないからこそ、ほんの少しでも彩りがあれば、前を向くことはできるかもしれないということですよね。
伊与原:実は「山を刻む」の先生は、私の研究者時代に周囲にいた何人かがモチーフになっています。特定の人というよりはいろんな人を重ね合わせた形ですね。
火山学者の中には山にさえ登っていればいいという人もいますし、海の研究者の中には船に乗っているのが何より好きという人もいます。好きなものが立派な研究成果や名誉に直結しなくてもいいという人も多いんです。本当なら授業もせず論文も書かず、一日中岩石を顕微鏡で見ていたいと言っている教授もいました。まさにそうなんだろうなと。
伊与原:いえ、僕はそういうところが足りなくて研究者をやめたんです(笑)。
ただ、あの世界にいたからこそ、科学の世界で生き続けている人たちの魅力は分かっているつもりだし、うらやましくもあります。本当にそれさえあれば何もいらないという人はたくさんいますし、そういう人でないと生き残っていけない世界でもありますから。
伊与原:「星六花」と「天王寺ハイエイタス」ですね。
伊与原:そうですね。「天王寺ハイエイタス」は僕が関西出身ということで関西弁を使いたいというところから題材を選んで書きはじめました(笑)。僕の中でのイメージは、大阪でちょっと切ない話を作るとすると、大阪湾とかブルースというような単語が出てきて。
伊与原:というより、おそらく大阪の人に共通するセンチメントを呼び覚ますものがそれらにあると思っています。それと科学を結びつける試みを「天王寺ハイエイタス」でやってみたということです。
伊与原:そうですね。都会的な話で、ツイッターでコミュニケーションをするというようなシーンもあります。
伊与原:若い人は分からないですけれど、僕自身は、SNSは小説の小道具にしづらいと思っていたんです。ただ、東京の話ですし、今の男女がコミュニケーションを取るうえで避けて通れないものかなと思いまして。
伊与原:はい。女性のニックネームもプレアさんですからね。このプレアさんに関してはモチーフはいなくて、想像でつくりました。面白い人を造形しようと思っていたら、ああいう人物像になりました。気に入っています。
伊与原:先ほど言ったような経緯がありまして、タイトルが先に決まりました。そして、アンモナイトのコレクションをしている研究者のおじいさんが浮かんできて、あとは僕の中で北海道でアンモナイトを採掘しているシーンが夏と結びつくというか、夏っぽいなと。だから、舞台を夏休みにして、都会から来ている子どもとおじいさんの話、と。
伊与原:書き始めの頃は子どもとおじいさんの爽やかな出会いみたいなことも考えていましたが、短編集の全体のテーマが固まってきたときに、それぞれの人生に屈折があったほうがいいと思ったんです。おじいさんにも子どもにも悩みがある。子どもなりに人生の局面に向き合っているという状態、ということをストーリーに織り交ぜました。
伊与原:特に鉱物少年とか、化石が大好きというのはなかったです。ただ、科学は好きで、漠然と物理学がやりたいと思っていましたし、フィールドワークにも憧れがありました。
伊与原:確かにそうかもしれません。僕自身はうんちくが入っている小説が好きで、こんな面白いことがあるんだよということを、いかに説教臭くなく上手く散りばめるかということは書く上での課題にしてきたのですが、今回はそのうんちくの要素を減らしつつ、科学の知識が出てくる必然性を考えながら書きました。そういった感想をいただけたということは、それが上手くいったのだと思います。
(後編は1月23日に配信予定)
■新潮社ウェブサイトにて、本書収録の「月まで三キロ」「星六花」を1月31日まで無料公開中。
https://www.shinchosha.co.jp/tsukimade3kiro/info.html
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