「孔子」といえば、ほとんどの人が「ああ、『論語』の人ね!」と思うはず。
そのくらい孔子は日本人に人気があり、その教えを大事にしている人は多いでしょう。
でも、よくよく調べてみると、孔子とは決して世間で言われているような「聖人君子」ではなく、論語(実際は孔子の著書ではなく、弟子が孔子の教えをまとめた)の道徳的で倫理的な示唆に富んだイメージも怪しいものなのだそう。
そんな孔子を「人間くさいダメおじさん」、論語を「本当に道徳的な効能があるのなら、中国はとっくのむかしに世界一の道徳国家になっていたはず」と喝破するのが『エラい人にはウソがある―論語好きの孔子知らず』(さくら舎/刊)の著者、パオロ・マッツァリーノさん。
この本でパオロさんは孔子と論語にまつわる間違いだらけの通説を指摘、その真の姿を教えてくれます。
■「聖人君子」のイメージはねつ造によって作られた
「論語」のイメージばかりが先行してしまっていますが、それ以外に孔子がどのような功績を残したかというと、知らない人がほとんどかもしれません。
というのも、孔子の生涯は謎だらけで、わかっていることといえば、紀元前552年ごろ、現在の中国山東省あたりに生まれて、職を転々としたのちに50代で役人になるも数年で辞職。その後弟子たちとともに諸国を放浪して再就職先を探すも挫折し、郷里に帰ってから私塾を開いて弟子の教育にあたった。これくらいのものなのです。
何しろ彼が生まれた2500年前といえば、日本はまだ縄文時代。そんな時期の人物のエピソードが詳細に残っている方がおかしいのです。本書では、いかにも孔子が聖人君子だったかのようなエピソードは、死後にねつ造されたものである可能性が高いとしています。
「さしたる功績を残せなかったおじさんが、儒教関係者に利用され、偉人・聖人に祭り上げられてしまった」というのが歴史的に正しい孔子像といえるかもしれません。
■孔子は思想家ではなく○○講師
孔子の「肩書」としてよく使われるのが「哲学者」「思想家」というもの。
これだけ見ると立派ですが、孔子は思想と呼べるような体系だった哲学を確立していません。
それどころか、彼の言行録である『論語』を見ても、悪いことや怨みを忘れて根に持たないことを勧めておきながら(憲問第十四)、怨みには怨みをもって報いよ(公冶長第五)とするなど、矛盾していたり、場当たり的な発言が非常に多いのです。
孔子は、宮廷儀式や葬礼・祖先供養に関する作法のエキスパートだと自称して就職活動をしていました。これは本当の話で、それらを学んだ弟子の何人かはその作法を役立てて就職活動を有利に進めたといいます。
そう考えると、孔子の実際の肩書は思想家でも哲学者でもなく、今でいうところの「マナー講師」というのが一番ぴったりくるはずです。
■評価されるべき「非暴力主義者」の一面
そんな孔子でも、一貫している点があります。
それは「徹底した非暴力主義者」だということで、まちがいなく評価されるべき点なのですが、不思議とこの点についてクローズアップされることはほとんどありません。
『論語』を通読すると、孔子が常に争いごとを避ける方向に動いていることがわかります。決して暴力に暴力で対抗するようなことはありません。
私たちが孔子から何かを学ぶとしたら、まさにこの「非暴力・非戦」の姿勢なのではないでしょうか。
無批判に「すごい人」と思われがちですが、本書では後づけの「伝説」を排した等身大の孔子の姿を垣間見ることができます。
決して「聖人君子」などではなく、矛盾していたり誇張して話したりと、いかにも人間くさいダメダメな孔子は、それはそれで魅力的なはず。そうした目で彼の教えに触れると、これまでとは違った学びがあるかもしれませんよ。
(新刊JP編集部)
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