勝海舟、江戸川乱歩、大隈重信、東郷平八郎などなど、歴史的人物の言葉やエピソードは、非常に面白く、そして現代に生きる我々にとっても大いに役に立つ。では、歴史に名を残した人物たちは、どんな人で、どんなエピソードを残したのだろうか。
『人生の達人』(出久根達郎/著、 中央公論新社/刊)では、渋沢栄一、泉鏡花、後藤新平といった財界、文壇、政界等で活躍した人々の人生のエッセンスといえる多彩なエピソードを紹介する。
まず、第8・17代内閣総理大臣であり、早稲田大学創設者でもある大隈重信は、「人生125歳」説を唱えていた。生物は成熟期に達した時の年の5倍は生きる。人間だと25歳が成熟期で、その5倍だから125歳となる。これが大隈説の根拠だ。
早稲田大学は2007年に創立125年を迎えたが、125年という半端な数字にもかかわらず、大々的に新聞などで報じられたのもこの大隈説があったからだ。
大隈は早稲田大学の創立者として有名だが、手掛けたのは早稲田大学だけではない。新島襄が同志社を立ち上げる際、寄付集めに奔走した。さらには、成瀬仁蔵の日本女子大学開校にも尽力し、わが国は女子の高等教育を疎かにしていた、その為、わが国力は半分であった、半分損失していたわけである、と演説したという。
江戸城無血開城の立役者である勝海舟は、明治の世になって「どうも近頃の人間は元気がない。人間に勢いがある時は、頭の上から陽炎のように炎が立っている。」と嘆いていた。
海舟は若い者に、時間があれば町をぶらつくことを勧めた。長崎留学の際、オランダ人教師に「何事となく見覚えとけ、いつかは必ず用がある。兵学をする人は勿論、政治家にもこれは大事なことだ。」と教えられたという。海舟はステッキの頭に磁石をつけ、長崎中を歩き回った。これが習慣になり、どこへ行っても単独でぶらついたのだ。だから、東京は知らない所はない。日本橋京橋はむろん、下町の裏通り、米屋がどこの横丁にあり、豆腐屋がどこの角にあるか、すべてのみこんでいた。「市中観察」は、無血開城策に役立ったと述べている。
歴史に名を残した人物も生きた時代は違えど私たちと同じ人間。成功もしていれば、失敗もした。
歴史的人物たちのエピソードや言葉に、親近感が湧いたり、参考になることがあるはずだ。
(新刊JP編集部)
"町の散歩"が役立った歴史的事件とは?