当たり前だった日常生活がある日失われ、外出自粛にともなう行動制限、先行きが見えない不安。2020年のコロナ禍において、私たちは過去にない不自由さに直面しています。
ホロコーストのユダヤ人生存者の体験談を、息子のアート・スピーゲルマンがマンガに書き起こした『マウス』と『マウス II』を一体化させ、訳文に改訂を施した"完全版 マウス"が刊行されました。戦争を生き抜いた父親を主人公に、史実を扱った作品ながら、奇しくもこのコロナ禍で不安や不自由さに直面した現代人にとっても、示唆に富んだ内容となっています。
ネコとネズミで描くホロコーストの真実
本作で特徴的なのは、登場人物の描写です。ユダヤ人はネズミ(=マウス)、ドイツ人はネコ、ポーランド人はブタ、アメリカ人はイヌとして描かれており、斬新かつ親しみやすいアプローチで、読者をホロコーストの真実へと引き込みます。

「第4章 首つりの縄がしまる」より

「第6章 ネズミ捕り」より
その独自の手法と視点で、これまでに語られてこなかった現実を伝え、世界に衝撃を与えたことから、グラフィック・ノベルとして初めてのピューリッツァー賞を受賞。現在30以上の言語に翻訳され、全世界で400万部を突破した傑作です。
ひとり、またひとりと家族が減っていく悲しさ、徐々に普段の生活が崩壊していくやるせなさ、差別、迫害、飢餓、虐待、死......言葉ではなく視覚に訴えるグラフィック・ノベルだからこその恐ろしさが伝わってきます。
父と息子の葛藤を描く
また本作は、戦争を生き抜いた父親の物語でありながら、父と息子の葛藤を描いた物語でもあります。父の物語を描くことを通じて、作者は自分自身を追い求め続けていたともいえるのです。
「父親をはじめユダヤ人をネズミにしたのは、ひとつにはナチスによって彼らは人間あつかいされていなかったこと、殺鼠剤で駆除されるネズミのように殺されていったことを表しているのと、じっさい、ぼくの父親は、隠れ家にひそんでいたときはネズミ穴のような秘密の通路から出入りしていたこともあるからなのさ」
そうスピーゲルマンは父親について語るが、戦争体験によってかたくなな性格になってしまった父親を等身大で描こうとする努力が、なおそこにある父親の人間味をうまくとらえ、マンガを深みのあるものにしている。(訳者解説)
いつまでも消えない恐怖と闘うヴラデックのその後と、両親がホロコーストで負ったトラウマが、息子にどのような影響を及ぼしたのか。極限状態における人間の弱さや、善と悪だけで説明できない人間の複雑さ。想像を絶する状況を生き抜いた経験者の言葉には、真実があります。
訳者・小野耕世氏による『完全版 マウス』解説はこちら。
http://www.panrolling.com/books/ph/maus.html