退職金を注ぎ込んで、著者はいったい何を得たのか???
東大を出たのちに大学院に進み農学博士となり、大手の医薬品企業の研究所に勤務。最後は350人もの研究員を抱える研究所の所長として、60歳の定年を迎えた男(著者)が挑んだのは、「ヨットで太平洋を周航する」という、まさかの無謀なチャレンジだった。
側から見ればではあるが、順風満帆に見える人生を歩み、すでに5人の子供も独立させた人が、悠々自適で気軽な日々を送ればいいものを、いったい何を血迷ったのか? なぜ、そんな危険な冒険をしようと思ったのか? である。
私は送られてきた原稿に目を走らせながら、長年、地道に研究畑を歩んできた著者が「六十の手習い」で始めたにしては、あまりにも大胆な試みに驚かずにはいられなかった。
『太平洋の上やフィヨルドの奥まった入江に、そして南太平洋の珊瑚礁に囲まれた島にひとりでひきこもり、生き方をリセットしてみることを決めた』などと、その決意を書くのだが、本文を読み進めるにつれ、この航海がそんなロマンチックなものだけではないことを、あらためて思い知らされることになる。
何しろ、南太平洋のフランス領ポリネシアのマヌアエ環礁では、座礁、遭難するという壮絶なアクシデントにも見舞われている。熱帯の真っ暗な海で、むろん一人である。45度に傾いたヨットから、荒波にさらわれてしまい溺れるシーンには読みながら思わず息を飲んだ。
「顔の上を流れる海水を見る羽目になった」という彼は、命からがらヨットに戻って、PLB(個人用捜索救助用ビーコン)などを使って救助要請したというのが午後8時。そして4時間後の深夜12時に、運良く彼を発見したのは、なんとフランス海軍のジェット戦闘機である。
血だらけの体、荒波に揉まれ浸水し続けるヨット。「万事休す」と書きながらも「そんな中で頭の方は比較的冷静だったように思う」などの自己分析がなんとも科学者らしい。翌朝からのヘリコプターによる救出劇を淡々と綴っているものの、本人から突然、衛星携帯電話で遭難を告げられた奥さんの気持ちは、いくばくだったろう、と想像を膨らませて読んでしまった。
むろん遭難は失敗であるに違いない。環礁に気づかず、GPSの画面を少し見ただけでレーダーをしっかり確認もしなかったミスを悔いてはいる。だが、このような危険を伴うことだからこそ冒険の血が騒ぐのではないのか。そうも思った。
著者は本書の冒頭に、イギリスの登山家であるエリック・シプトンの著書『我が半生の山々』(吉沢一郎訳)から、次のような言葉を借りてきて添えている。
「一瞬でも永遠に記憶される貴重な体験をした、という事実は何物にも代えることができないのだ」
生業であった研究所での長年の日々では決して体験できない命の駆け引き。座礁して遭難したことは、『「あの世」から「この世」を覗いたような気がする』とさえ書くように、まさに死にかけた体験である。だが、それもまた「何物にも代えることができない永遠に記憶される貴重な体験」ではなかったか。そんなことを幾度も考えさせてくれた作品だった。
彼が、退職金から1000万円以上を捻出し、米国シアトルで34フィートのパシフィクシークラフトを購入して「蒼穹(そうきゅう)」と名付けたのは2010年のことだ。
2011年から2012年には、オレゴン州のアストリアより北上し、カナダ、ブリティッシュコロンビア州西岸からアラスカのスキャグウェイ、グレーシャベイまでを航海して、カリフォルニア州オークランドにヨットを係留。2013年には、オークランドよりメキシコを経てフレンチポリネシアへ航海。そして同年9月にフレンチポリネシア、マヌアエ島にて、前述のように遭難してしまいフランス海軍に救出されている。
しかし「素人の手習い」であれば、ここで懲りてヨット航海を諦めるのだろうが、この人の常人と違うところは、その翌年の2014年にはオーストラリアのシドニーで、今度は、船齢40年の31フィートのヨットを手に入れて「Heading Liberty」と名付け、新たな航海に挑んでいることである。いわば、高級車を中古の軽自動車に乗り換えたようなものとはいえ、まったく懲りていない。
オーストラリアからニュージーランドのオプアに渡りヨットのフィッティングを半年行い、2015年には、南太平洋を航海し、わざわざ前述のマヌアエ島沖で座礁した「蒼穹」を弔ったのちに、サモア、トンガ、フィジー、バヌアツ、ミクロネシア、グアムを経て、2016年帰国(沼津、重須)している。
そして2019年1月には、ドイツのスチールヨットによる南極半島のセーリングに参加して、南米アルゼンチン、ウシュアイアから出港し1ケ月の南極半島航海を経験しているから、もはや本格的なヨット乗りである。
「一度、星子さんのヨットに乗せてくださいよ」と聞いてみると、「ええ、喜んで」と笑う。そういう話が何件も来ているとのことだった。
文章は緻密でわかりやすくヨット乗りにはもちろんのことヨットに関心の薄い人も十分に楽しめる。写真の腕はプロ顔負けのものも多数あり、旅情を誘われることだろう。
文/木村浩一郎
●書籍内容
サラリーマンを定年退職後、ヨットで太平洋に乗り出した5年間の単独航海の記録。北米西海岸の内陸水路を経て美しいフィヨルドや氷河の旅を経験し、メキシコから南太平洋のタヒチへ。
美しいサンゴ礁の島々と優しい島の住人達。その後に待っていた小さな環礁で経験した座礁事故と九死に一生を得たフランス海軍による救出劇。その後、船齢40年のヨットをオーストラリアで見つけ、修理に悩まされながらさらに続けた航海。南太平洋から北太平洋、そして日本に帰るまでの様々な人たちとの交流や出来事。最後に海外のヨットマンに助けられながら行った南米パタゴニアから南極半島の極地セーリングの話を加えて著者のヨットでの航海生活の実際と太平洋への想いが描かれている。
●著者略歴
星子 繁(ほしこ しげる)
1951年東京都小金井市に生まれる。1980年東京大学大学院修了(農学博士)。同年明治製菓(株)入社。以後32年間医薬品の研究開発業務に携わる。2011年明治製菓ファルマ(株)を定年退職後、米国西海岸を起点としてヨットで単独太平洋を周航する。
その間フランス領ポリネシアの環礁で座礁事故を経験しながら2016年日本に帰国。