●夫が奪い取って投函したマンガ原稿が出版化に!
作者の鈴橋加織は老人ホームで働く現役の看護師。自分の仕事体験を同業者に伝えたい、役に立ててもらいたい、という一心で、特別養護老人ホームを舞台にしたマンガを3年間にわたって描きためてきた。「マンガのプロでもなく自信もなかった」という鈴橋は、「出版社に投稿する勇気も出なかった」と当時を振り返る。
マンガ原稿に添える企画書も10回は書き直した。だが描き上げた原稿は2ヶ月間ずっと神棚に祭ったまま。原稿を奪い取るようにして投函したのは、それを見かねた鈴橋の夫だった。
2015年7月4日。電話で企画出版採用の通知を受けた鈴橋は、通話の最中に感極まって泣き出した。その様子を横で見ていた夫は、親戚の不幸の知らせに違いないと思ったという。
応募されたマンガ原稿には、老人ホームでの看護師と入居者との些細なやりとりが面白く描かれていた。役立つ看護や介護の情報も散りばめられ、かなりの実用性もエンターティメント性もあると判断された。だがそれらが出版採用の決定的なファクタではなかった。
入居者やその家族らによって引き起こされるアクシデントの数々を、憎しみや怒りとしてではなく、するりと抜けるかのように笑いに引き込んでいく感覚。「私はこの仕事が好きなんです」とさらっと言ってのけるスタンス。そして何より高齢者に向けられる鈴橋の「愛情」。それが決め手となった。鈴橋の夫が原稿を投函してから、わずか数日で出版化が決定。さらに出版前に続編の刊行も決まった。
●止まらない弱者への虐待
このマンガ原稿が編集部に届いたころ、全国の老人ホームや障がい者施設、保育所での虐待が大きな社会問題になっていた。名古屋では93歳の老人に笑いながら暴行を加える様子をスマホで撮影した職員らが逮捕され、さいたま市の障がい者施設では、障がい者を裸にした写真を公開していた職員が逮捕された。まだ言葉もままならない幼児が保育所で酷い虐待を受けていた。
そういった事件は氷山の一角らしく、全国の1500以上の老人介護施設で高齢者への虐待がある、あるいは障害者への虐待報告は2000人を超えた、などといった報道も続いていたのである。
「仕事がつらかった」「ストレスがたまっていた」「言うことをきかないので罰を加えた」「腹が立った」「虐待が面白かった」 経緯は事件によって異なるものの、職員の質の低さ、管理不足や職員不足、そして労働の環境や待遇などが有識者によって指摘された。老人や障がい者、幼児、ホームレスといった、腕力も、訴える力も弱い者へ向けられる、凄惨な仕打ちを一体どうしたらいいのだろうか?
●高齢の読者から激励の手紙も
そのような問いかけが続く中で、この鈴橋の描く作品は、まさに暗闇に差し込む一筋の光に思えた。
出版の反響は大きかった。在庫はすぐに底をつき2刷となった。書店員らもネットで絶賛した。「続編の刊行はまだか」との読者の問い合わせも止まらない。一般の人はもとより、医師、看護師、介護師、カウンセラーからも多くの感想ハガキが舞い込んだ。新聞や、医療や看護の専門誌でも紹介された。
しかし驚いたのは多くの高齢者や老人ホームの入居者らから、「毎晩、枕元に置いて何度も繰り返し読んでいます」「こんな看護師さんを私は抱きしめたい」「読みながら泣きました」「頑張ってください」「こんなマンガ、いままで見たことない」といった感想が寄せられたことである。
作者の望んだように同業の看護師らの参考にされることは意味のあることだ。社会的評価が得られたことも素晴らしい。
しかしそれにもまして、高齢者、すなわち人生の諸先輩方が、この本を手にとって、くすりと笑って楽しくなったり、あるいは自分らが周囲に与えている苦労をも感じたりしてくれるならば、この本を送り出した編集者の一人として、本望である。
本文敬称略
木村浩一郎
『今日も私は、老人ホームの看護師です①』を
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